サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

夭折の幻想 三島由紀夫「春の雪」 6

 引き続き、三島由紀夫の『春の雪』(新潮文庫)に就いて書く。

 美しく充実した人生の絶巓に自ら君臨して輝きながら、その稀少な瞬間を「永遠」の墓標の下に閉じ込めてしまいたいと願う心理の様態は、誰の心にも宿り得る普遍的な感慨であると言えるだろう。だが、我々の日々の生活が「時間」という不可逆的な「腐蝕」の形式に縛られていることは自明の真実であり、如何なる謀略を駆使しようとも、その絶対的な軛の齎す制約から完全に解き放たれることは、誰にとっても不可能な希望である。

 そしてこの終末について、二人が子供のように無責任な気持でおり、なす術もなく、何らの備え、何らの解決、何らの対策も持たないそのことが、純粋さの保証のような気がしていた。しかし、それにしても、口に出してしまえば、終末の観念は二人の心にたちまち錆びついて離れなかった。

 終りを考えずにはじめたのか、終りを考えればこそはじめたのか、そこのところがもう清顕にはわからなくなっていた。雷が落ちて二人をたちどころに黒焦げにしてくれればよいが、このまま何らの劫罰が下らなかったらどうすればよいのか? 清顕は不安を感じた。『そのときもなお、自分は聡子を今のように、烈しく愛していることができるだろうか?』(『春の雪』新潮文庫 p.314)

 清顕の不安は恐らく正鵠を射ている。彼の聡子に対する情熱が、逆らい難い断絶の到来を予期することで支えられ、煽動されていることは明瞭な事実である。彼らの間で取り交わされる劇しい愛情の応酬は、常に彼らの関係が致命的な破局と隣接しているという厳粛な事実によって補強され、特権的な高揚を許されているのだ。換言すれば、彼らの関係は「未来」という曖昧模糊たる可能性の巨魁を予め剥奪されることによって、恰かも時間性の支配を免かれた「永遠」という名の断絶の裡に幽閉されているかのような外観を獲得したのである。

 彼はかねて学んだ優雅が、血みどろの実質を秘めているのを知りつつあった。いちばんたやすい解決は二人の相対の死にちがいはないが、それにはもっと苦悩が要る筈で、こういう忍び逢いの、すぎ去ってゆく一瞬一瞬にすら、清顕は、犯せば犯すほど無限に深まってゆく禁忌の、決して到達することのない遠い金鈴の音のようなものに聞き惚れていた。罪を犯せば犯すほど、罪から遠ざかってゆくような心地がする。……最後にはすべてが、大がかりな欺瞞で終る。それを思うと彼は慄然とした。(『春の雪』新潮文庫 pp.314-315)

 けれども、如何に時間の軛から脱却した超越的な瞬間に憧れようとも、地上の世界で、そのような特権的な恍惚の時間を保つことは出来ない。時間の流れを超越するという奇態な幻想は、人間の脳裡に閃く砂上の楼閣であり、どれほど絶対的な禁忌に阻まれた関係に固有の血塗られた歓喜に顫えようとも、流動する現実の身も蓋もない「腐蝕」の過程を完璧に閑却することは不可能である。禁忌や罪悪とは、清顕が夢見るほど審美的な観念ではない。そこには退屈で乾燥した、見苦しいばかりの現実的な時間が滔々と流れているのだ。「勅許」という重大な禁忌を悪用して、虚無的な時間の反復的な持続に抵抗し、特権的な「永遠」の刹那に挺身しようと試みた清顕の身勝手な野心は、着々と狭まってくる無様な「現実」の包囲網に触れて、縦横に傷つけられていく。

 ――その晩、清顕の胸はさわいで、自分の恋にいよいよ鉄鎖が巻きついてくる、その床を引きずって近づく暗い鉄の響きをきいた。しかし勅許の下りたときに彼をかり立てたような晴れやかな力は失われていた。あのとき彼をあれほど鼓舞した「絶対の不可能」という白磁のような観念には、すでにこまかい罅がいちめんに入っていた。そしてあの決意がみのらせた激烈な歓喜の代りに、今は一つの季節のおわりを見つめている者の悲しみがあった。(『春の雪』新潮文庫 p.333)

 勅許に叛くことが「絶対の不可能」であるからこそ、清顕は聡子との禁じられた関係に「永遠」の魅惑を嗅ぎ取って危険を冒した訳だが、そうした悲愴な果断さえも、虚無的な時間の影響を浴びて徐々に腐蝕していくという現実から遁走することは叶わない。現実の時間は、あらゆる特権的な瞬間を風化させ、その豊かな彩りを古びた写真のように褪色させる悪魔的な権限を有している。換言すれば、清顕の果敢な挑戦は見事に、現実に対する悲惨な敗北を喫したのである。彼の想い描いた幻想的な謀略は、虚無的な現実の披瀝する狡智の前では、単なる無力な蛮行以上の意義を持ち得ない。勅許の下りた婚姻を破壊する清顕の無法な乱行は、聊かも崇高で特権的な悲劇ではなく、無智な若者の演じる嘆かわしい愚行に過ぎないのである。

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)