サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 6

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 芸術作品とは、時間の或る断面図である。滔々と流れ続ける無限に等しい時間性の或る特定の瞬間を切り取り、凍結させ、その細緻な構造を余すところなく明瞭に抽出し晶化させること、それが芸術という営為の重要な目的である。その意味で、芸術は「時間」という夥しい重力に対する抵抗の意義を根本的に含んでいると言える。

 芸術家の主要な労役が「作品」の創造であることは論を俟たない。芸術家の血の滲むような労役の涯に生み出される数多の「作品」の群れを通じて、我々は既に失われてしまった世界、今まで誰も認識することのなかった世界、新たに発見されたり想像されたりした世界への特別な回路を獲得することになる。絵を描くことも文字を綴ることも音律を掻き鳴らすことも総て一途に、こうした「瞬間の凍結」という切実な祈念の裏打ちを伴って編輯されている。

 言い換えれば、芸術的な「作品」とは常に「瞬間の結晶」であって、時間的な変化に抵抗する物象の体系であるから、時間の経過という我々の世界の普遍的な現象は必然的に「芸術」の営為と敵対することになる。無論「作品」の内部では、現実の時間と隔てられた内在的な時間が流れているが、現実の裡に屹立する一個の存在としての「作品」は、時間の有する抗し難い腐蝕の作用を原理的に峻拒している。

 この年になって、はじめて彼の奥深いところで、変身の欲望が目ざめていた。あれほど自分の視点を変えずに他人の転生を眺めて来た本多は、自分の転身の不可能についてさして思い悩むこともなかったのに、いよいよ年齢がその最終の光りで、平板な生涯の野を一望のうちにしらじらと照らし出す時期が来てみると、不可能の確定が、却って可能の幻をそそり立てた。

 自分も亦、自分の予期しないことを仕出かすかもしれない! 今まであらゆる行為は予期され、理性は夜道をゆく人の懐中電灯のように、つねに一歩先に光芒をひろげていた。計画し、予断し、自分自身に対する驚愕を免かれていた。もっとも怖るべきことは、(あの転生の奇蹟も含めて)、すべての謎が法則に化してしまったのである。

 もっと自分に愕かなければならない。それはほとんど生活の必要になった。理智を軽蔑して蹂躙する特権があるとすれば、彼自身にだけ許されているという理性の自負があった。そうしてもう一度、この堅固な世界を不定形の裡へ巻き込まねばならない。彼にとってはもっとも馴染の薄い何ものかへ!(『暁の寺新潮文庫 P198)

 芸術家は確かに「作品」を創造するが、その材料と設計図は絶えず現実の事象から汲み上げられ、抽出される。完全なる真空から前代未聞の奇術師のように何らかの認識や表現を生み出す訳ではない。従って芸術家の作業は常に前提として「世界に関する認識」の蓄積を要求する。認識や記憶が複雑な結合や混淆を演じることで一個の「作品」が形成されることを思えば、世界に関する完全な無智は確実に「創造」の権能を持たないだろう。芸術家の「創造」の養分は「世界」に関する絶えざる認識の蓄積から分泌される。

 本多繁邦が作者の手で典型的な「認識」の人物として描かれていることは、作品を一読すれば明らかである。その養分の具体的な実例を敢えて探し求めるとすれば、それは恐らく三島由紀夫自身の半生ではないかと推察される。作品の執筆に当たって綿密な取材と下準備に余念のなかった三島は、現実への精細な観察を積み重ねて蓄えることの重大な効用を知悉していたに違いない。そして芸術家は作品の創造という重大な労役と責務を後に控えている為に、観察された現実との間に一定の疎隔を絶えず確保しておかねばならない。芸術家は現実の断片を掠め取る俊敏で執拗な盗賊のように、執筆に際しては速やかに現実の渦中から退却して、誰も知らない個人的な闇の栖へ隠遁しなければならない。従って芸術家は常に生々しく動的な現実に対する黒子の役割を黙って引き受けることとなる。どれだけ芸術家が作中の人物に強い思い入れを懐き、自身の経験や思想や情熱を残らず注ぎ込んだとしても、造物主と被造物との間には決して乗り超えられることのない絶対的な径庭が横たわっているのである。芸術家が現実に関して抱懐する精細な認識の堆積は、彼自身の具体的な生活や行動の為に役立てられるのではない。それは飽く迄も「作品」という現実の非時間的な結晶を生成する為の材料であり、人生を特殊な精錬の過程に晒して、時間という夾雑物を悉く濾過して除去してしまう芸術的創造の工程においては、作者は常に動的な現実からの乖離を受容しなければならないのだ。

 殺人というと角が立つが、殺人はひとえにこの記憶の純粋化のため、記憶をもっとも濃密な要素に蒸留するための必須の手続なんです。それに醜い不具者の住人たちはえらいものです。全くえらいものです。この人たちは自己放棄の達人で、己れを空しくして生きています。この人たち、愛者=殺人者=記憶者は、自分の役割を忠実に生き、何一つ自分のことについては記憶せず、愛される者の美しい死の記憶だけを崇めて生きてゆくんですから、その記憶の作業だけが、この人たちの人生の仕事になるんですから、『柘榴の国』は、又、糸杉の国、美しい形見の国、喪章の国、世界でもっとも平和な静かな国、回想の国なんですね。(『暁の寺新潮文庫 P218)

 今西の開陳する奇態な妄想は、そのまま「芸術家」という実存的形態の特質の行き届いた要約であると同時に、本多繁邦という人物の精神的構造を明瞭に告示するものであると言える。芸術の本質は「記憶」であり、それは或る出来事や人物の生涯を時間的な腐蝕の災禍から救済することを意味する。本多は正しく清顕や勲の赫奕たる夭折の生涯を傍観し、証言し、記憶することで己の人生を支えている。我々の記憶が必ずしも明瞭な時系列に縛られず、回想の内部では複数の記憶が糸の切れた扇のように秩序を離れて雑多に混淆することが珍しくないのは周知の事実であるだろう。つまり「記憶」とは「時間」の畏怖すべき風化の魔力に対する抵抗の機能であり、あらゆる芸術的創造の涵養される重要な礎石の役目を担っているのだ。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)