サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 5

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 これは漠然たる感想に過ぎないのだが、三島の「理想」を象徴するのが「春の雪」における松枝清顕や「奔馬」における飯沼勲であるとしたら、三島の「現実」を象徴するのは「暁の寺」において一挙に重要な主役の地位へ躍り出た本多繁邦ではないかと思う。清顕や勲は己の信念に基づいて果敢な「行為」の世界を生き抜き、しかもその行為が深刻な不条理や醜悪な現実と衝突して虚しく砕け散ってしまう手前の、或る美しい「記憶」の状態で自らの生涯を卒えることに成功した。言い換えれば、彼らは「柘榴の国」における「記憶される者」としての実存を鮮やかに全うすることに成功した。それが三島にとって一つの崇高な理想の形態であったことは明瞭な事実である。

 けれども本多は、自ら諸々の美しい行為に手を染めることはなく、常に「傍観者」としての安全で客観的な位置に自己の存在を据え置いている。彼は得体の知れぬ情熱に身を焦がすこともなく、破滅的な行為に決然と挑みかかって玉砕するような愚挙や蛮行とも無縁であった。勲の弁護を引き受ける為に判事の職を擲ったことは、彼の人生における唯一の果敢な「行為」であったかも知れないが、その選択が彼の生涯を「破滅」に導いたとは到底言い難い。

 本多繁邦は、様々な現実や幻想を組み合わせて或る一つの豊饒な「虚構」を構築しようとする「芸術家」としての三島の内面的な秩序を象徴する人物であるように見える。現実の世界に日々生起する無数の複雑な事件、様々な悲劇の顛末を詳さに眺め、一つ一つの入り組んだ構造を解明し、それによって現実を或る理智的な法則の裡に閉じ込めること、それらの果てしない労役を、芸術家たちは自らの双肩に背負っている。

 人間のほんのかすかな羞恥や、喜びや、怒りや、不快が、天空的規模のものになること。人間の内臓の常は見えない色彩が、この大手術によって、空いちめんにひろげられ外面化されること。もっとも些細なやさしさや慇懃ギヤラントリー世界苦ヴエルトシユメルツと結びつき、はては、苦悩そのものがつかのまのオルギエになるのです。人々が昼のあいだ頑なに抱いていた無数の小さな理論が、天空の大きな感情の爆発、その花々しい感情の放恣に巻き込まれ、人々はあらゆる体系の無効をさとる。つまりそれは表現されてしまい、……十数分間つづき、……それから終るのです。(『暁の寺新潮文庫 pp.17-18)

 芸術家崩れの菱川という男が本多に語って聞かせる観念的な議論は、芸術或いは「表現」という営為の備えている性質や構造を明瞭に言語化している。芸術的営為は、我々の属している卑小な現実を無闇に膨張させ、極限まで高揚させ、或る情熱的な構図の下に目覚ましい輪郭を賦与し、そして終結へ導く。眼前で生起する事態、或いは既に遠く過ぎ去った昔日の経験に関する精細な記憶、それらの題材に様々な香辛料を注ぎ込んで、一幅の絵画や一幕の芝居が形作られる。

 こうした芸術家の労役が如何なる欲望に支配されているのかを考えることは、この「豊饒の海」という作品を精密に読解する上で、決して避けて通ることの出来ない作業である。芸術家の欲望とは要するに、或る事件や事物を現実の世界から引き剥がして、作品という永遠的な記憶の装置に移植することへの熱狂的な衝迫を指している。或る瞬間的な現実の断面を時間性の軛から解き放ち、時間や歴史の流れに対する超越的な性質を事物に賦与すること、それが芸術的営為の本質的な特徴であり使命である。

 時間性の軛から逃れること、それが三島的な論理の中枢に位置する欲望の対象であることは既に幾度も述べてきた。芸術家は、対象となる事物や想念を時間の法則から切り離して、作品という一個の牢獄の裡にそれらを定着させることを己の職務としている。恐らく三島の内面においては、そうした「他者の存在を作品化する」という芸術家的な欲望と「自分の存在そのものを作品化したい」という英雄的な欲望とが絶えず鬩ぎ合っていたのではないかと思われる。

 芸術という営為を「時間の廃絶」に向けた或る幻想的な手続きであると定義するならば、三島由紀夫という人物の抱えている精神的な構造が極めて芸術的な志向性に彩られていることは明瞭である。「豊饒の海」全巻を通じて繰り返される東洋的な「輪廻転生」(それは同一の人格=魂が回帰する西洋的な「復活」とは性質を異にしている)の秘蹟において、幾度も冥界から現実の世界へ回帰するのは「夭折」という一つの実存的形態である。「夭折」という実存的形態そのものが、無限に流れて堆積し続ける「時間」の論理に対する叛逆を含み、その叛逆的性質ゆえに芸術的な特性を帯びていることもまた一つの明瞭な事実である。「夭折」という実存的形態は、人間の「生」を日常的な倦怠から救済し、その本来的な「堕落」の危険を強制的に排除する効果を宿している。言い換えれば「夭折」とは、人間の「生」における或る特権的な瞬間(無論、それは比類無い美しさによって覆われていなければならない)を永遠に凝固させ、いわば芸術的な「作品」として結晶させるような実存的形態なのである。三島にとって「芸術」は「時間」という忌まわしい「堕落」の論理への抵抗という含意を孕んでいる。けれども、彼は「芸術」という営為に必然的に装填されている間接的で傍観的な性質への不満を完璧に抑圧することに失敗した。恐らく「芸術」の世界においては、特権的な永遠性を獲得し得るのは、作者にとって飽く迄も外在的な地点に留まり続ける諸々の「作品」だけである。三島の超越的で不可能な願望は、そうした「作品」の外在性に堪えることを拒絶した。常に「他者」だけが「作品」という芸術的形態を備えて「時間」の彼方へ飛翔していくという現実、芸術家にとっては避け難い日常的な現実への抑え難い不満が、彼を「芸術の棄却」という重大な決断へ向かって跳躍させたのである。それは換言するならば「芸術家の実存そのものを作品化すること」という奇矯な主題への果敢な挑戦である。芸術家として「美」を外在的な仕方で発見し、作品の裡に定着させるという生き方に慊らない想いを懐き、その消極的で否定的な情念を極限まで煮詰めてしまった結果、彼は自己の存在そのものに芸術的な形態と様式を、つまり「時間」からの脱却という不可能な様式を賦与することに剣呑な野心を燃え上がらせたのである。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)