サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 4

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 長大な「豊饒の海」の物語の劈頭から登場する本多繁邦は、第一巻「春の雪」及び第二巻「奔馬」においては、飽く迄も脇役の位置を堅持して、主役に当たる松枝清顕と飯沼勲の苛烈で絢爛たる「夭折」の生涯を見届ける役割に専心していたが、第三巻の「暁の寺」に至って俄かに脚光を浴び、物語を推進する中心的な存在へ転身を遂げる。尤もそれは、本多が清顕や勲のように目映く悲劇的な人生へ勇気を以て踏み出したことを意味するのではない。本多は飽く迄も悲劇の「傍観者」としての安全な位置に留まりながら、その境遇に充たされぬものを感じて、極めて個人的で主観的な「葛藤」の泥濘に嵌まり込むのである。

『俺は四十七歳だ』と本多は考えていた。若さも力も無垢な情熱も、肉体と精神のいずれにも残っていなかった。あと十年もすれば死の準備をせねばならぬだろう。しかし、自分は万が一にも戦争で死ぬことはあるまい。本多は軍籍を持たなかったし、よしんば持っていても、もう戦地へ狩り出される惧れはなかった。

 若者の果敢な愛国的行為を、遠くから拍手していればよい年齢だ。ハワイまで爆撃に行ったとは! それは彼の年齢からは決定的に隔てられている目ざましい行為だった。

 隔てたのは年齢だけだったろうか。決してそうではない。本多はもともと行為をするようには生れて来なかったのだ。(『暁の寺新潮文庫 pp.128-129)

 老境に至ることは、華やかで劇的な人生から無限に遠ざかり、安閑たる境地から外界の様々な事件を専ら眺めて観察するだけの日々を送ることを意味している。無論、こうした定義は如何にも三島的な論理に即したもので、実際の老年期にある総ての人々に適合する訳ではないだろう。そして本多繁邦という人物は、未だ若年にある裡から早くも老年の原理を密かに隠し持ち、理性の鍛錬を通じてそれを着実に肥大させ、膨張させてきた。三島的な論理に基づいて定義するならば、若さは情熱と行動に結び付き、老いは理性と省察に結び付いている。こうした認識の傾向が、極めて露骨なロマンティシズムの類型を含んでいることは明瞭な事実である。

 「豊饒の海」という物語には一貫して、「行為」と「認識」或いは「情熱」と「理性」とを対蹠的な要素として二元論的に対置するロマンティシズムの構図が底流している。「行為=情熱」の領域に属する清顕や勲は転生を繰り返すが、「認識=理性」の領域に属する本多は積み重なる時間の推移の裡に佇み続けている。こうした対比は、三島的な論理を駆動する根源的な「緊張」を孕んでいる。

 彼の人生は、誰もそうであるように、死のほうへ一歩一歩歩んで来たのだが、それはともかく、彼は歩くことしか知らない人間だった。駈けたことがなかった。人を助け救おうとしたことはあるが、人に助けられる危急に臨んだことはなかった。救われるという資質の欠如。人が思わず手をさしのべて、自分も大切にしている或る輝やかしい価値の救済を企てずにはいられぬような、そういう危機を感じさせたことがなかった。(それこそは魅惑というものではないか。)遺憾ながら、彼は魅惑に欠けた自立的な人間だったのである。

 真珠湾攻撃の熱狂に本多が嫉妬を感じていたと云っては誇張になる。ただ彼は、爾後自分の人生が決して輝やかしいものになることなく終るという、利己的で憂鬱な確信の虜になったのである。今までついぞそんな輝やかしさなど、本気で望んだことのない筈の彼が!(『暁の寺新潮文庫 p.129)

 本多の考える「輝やかしさ」が、社会的な栄誉や経済的な成功に類するものではないことは明白である。本多は法曹として数多の名誉や財産に恵まれる生涯を送りながら、そうした外面的な「輝やかしさ」に充たされず、理性と情熱との狭間で「憂鬱な確信」に囚われている。この鬱屈は、敗戦以後の作家の精神を絶えず蝕み続けた宿痾のような情念ではないかと私は思う。赫奕たる壮烈な栄光、絶対的な一回性によって塗り固められた彫像のような栄光、それを絶えず望みながら容易に果たせず、老年の玄関へ辿り着いてしまったとき、彼の内部で「利己的で憂鬱な確信」は抑え難い隆起を示したのではないか。

 「行為」に対する憧れ、尤も三島の場合、この「行為」という言葉には、特殊な含意が充填されている。その「行為」は、日常的な生活や社会的な秩序を破壊する壮烈な暴力性を伴っていなければならない。それは或る人間の実存を永遠の「記憶」として固定し、表現する為の方途でなければならない。

 忌わしいもの、酩酊、死、狂気、病熱、破壊、……それらが人々をあれほど魅して、あれほど人々の魂を「外へ」と連れ出したのは何事だろう。どうして人々の魂はそんなにまでして、安楽な暗い静かな棲家を捨てて、外へ飛び出さなくてはならなかったのであろう。心はなぜそれほどまでに平静な停滞を忌むのであろう。(『暁の寺新潮文庫 p.133)

 「平静な停滞」を厭悪するのは必ずしも万人に共通する心性ではない。寧ろ「平静な停滞」を積極的に愛する精神的形態も確かに存在している。そうした傾向は恐らく「老年」に対する肯定的な意識を備えているだろう。だが、絶えず何らかの「栄光」に憧れ、美しい「生」の瞬間を「永遠」の領域へ閉じ込めて凍結しようと試みる三島的な欲望にとって、そうした「平静な停滞」は最大の宿敵に他ならない。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)