サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 3

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 作中に登場するドイツ文学者の今西という奇妙な男は、本多繁邦の別荘開きの祝宴に招かれ、客人たちの前で自身の抱懐する「性の千年王国ミレニアム」に就いて長広舌を揮う。「柘榴の国」と名付けられた、その奇怪なユートピアの秩序は、三島的な美学と論理及び「豊饒の海」という作品の基本的構造の比喩的な要約としての役割を果たしているように思われる。

『柘榴の国』の人たちは非常に聡明ですから、この世には、記憶に留められる者と、記憶を留める者と、二種類の役割しかない、ということをよく知っているんですね。

 ここまで来たら、どうしたって、『柘榴の国』の宗教について、お話ししなくちゃなりませんね。そもそもこんな慣行を生み出したのは、この国の宗教観念なんですからね。

『柘榴の国』では、復活を信じません。なぜなら神はその最高の瞬間に現前すべきであり、一回性が神の本質ですから、復活したあとで前よりも美しくなるなんてことがありえない以上、復活は無意味です。洗いざらしのシャツが、下し立てのシャツより白いということは考えられませんでしょう。『柘榴の国』の神は一回限りの使い捨てなんですよ。

 ですから、この国の宗教は多神教ではありますけれど、いわば時間的多神教で、無数の神が、肉体の全存在を賭けて、おのおのの最高の瞬間を永遠に代表したのち、消滅するんです。もうおわかりでしょうが、『愛される者の園』は神の製造工場なんです。

 この世の歴史を美の連続と化するために、神の犠牲が永遠に継続しなければならない、というのがこの国の神学です。合理的な神学だと思いませんか。その上、この国の人には偽善が一切ありませんから、美とは性的魅力と同義語で、神すなわち美に近づくには性慾しかない、ということを知り尽しております。(『暁の寺新潮文庫 pp.215-216)

 こうした描写、設定は、明らかに「豊饒の海」という壮大な作品を支えている基本的な諸条件の端的な要約である。「この世のものならぬ美しい児」と「醜い不具者」との二元論的な対比も、美しさの絶巓において儚く死んでいく松枝清顕や飯沼勲と、その夢幻的な生涯を只管座視し続ける本多繁邦との、換言すれば「行為」と「認識」との対照を意識的に踏まえているように感じられる。

 三島的な論理は常に「時間の廃絶」を企図している。それは今西の物語る理想郷において「復活」が否定されていることと符節を合していると言えるだろう。三島的な論理において「死」は絶対的な一回性の顕現を象徴する役目を担っている。若しも「死」が繰り返される「復活」の過程の従属的な前提に過ぎないのであれば、或る個体が美の絶頂において殺害され、記憶として永遠化されるという手続きは直ちにその特権的な価値を失うだろう。美しい「記憶」は色褪せ、無限に持続する反復的な実存は「死」という営為の重要な意義を相対的に衰微させるだろう。

 美に近づくには性慾、しかしその瞬間を永遠に伝えるものは記憶、……これで大体『柘榴の国』の基本構造がおわかりでしょう。『柘榴の国』の本当の基本理念は記憶なので、いわば記憶がこの国の国是なんですね。

 性的歓喜の絶頂という肉の水晶のようなものは、記憶のうちにますます晶化され、美神の死のあとに、最高の性的喚起がよびさまされます。ここに到達するためにこそ、『柘榴の国』の人々は生きているのです。その天上的な宝石に比べれば、人間の肉体的存在は、愛する者も愛される者も、殺す者も殺される者も、そこへ到達する媒体にすぎないともいえるでしょう。これがこの国のイデアなんです。

 記憶とは、われわれの精神の唯一の素材ですね。性的所有の絶頂に神が顕現したとしても、そのあとで、神は『記憶される者』になり、愛者は『記憶する者』になるという時間のかかる手続を経て、はじめて神は本当に証明され、美ははじめて到達され、性慾は所有を離れた愛にまで浄化されるんですね。そんなわけですから、神と人間存在とは、空間的に隔絶しているのではありません。時間的にズレているのです。ここに時間的多神教の本質があります。おわかりですか?(『暁の寺新潮文庫 pp.217-218

 「柘榴の国」の基本理念が「記憶」という機能に存するという一文は、三島的な論理の枢要を解明するに当たって、重要な示唆を含んでいるように思われる。彼が無際限に持続する「時間」という形式を忌み嫌い、日常生活への深刻な侮蔑を終生保ち、驚嘆すべき執念深さで「美しい死」という実存的形態に憧れ続けた背景には、自己が「忘却」されることへの異様な恐懼の感情が介在していたのではないだろうか? 換言すれば「美しい死」とは「忘却されることのない死」であり、従って「時間」の齎す風化作用を免除された「死」の異称なのではなかろうか?

 厖大な時間の流れは、あらゆる事象の歴史的な固有性を磨滅させ、その特権的な一回性の光輝を褪色させる残忍な腐蝕の作用を備えている。言い換えれば、それは歴史というものの奇態な反復性、どんなに特殊で異様に見える事象であっても、長大な歴史的推移の過程では反復され得るという退屈な性質を意味している。こうした歴史の反復的性質に抗う為に持ち出されたのが「時間の廃絶」という不可能な構想であり、「復活の否定」という教義なのだ。

 そうであるならば、この「豊饒の海」という作品が「輪廻転生」という紛れもない「復活」の枠組みを採用している事実は、作者にとって如何なる意味を有しているのだろうか?

 今西の性的な趣味には顰蹙しながら、本多は別の夢想に涵った。もしこれが今西の空想でないとすれば、われわれはすべて神の性の千年王国ミレニアムの住人なのかもしれないのである。神が本多を記憶者として生き永らえさせ、清顕や勲を記憶される者として殺したのは、神の劇場の戯れであったかもしれない。しかし今西は復活はないと言った。輪廻はともすると復活と相対立する思想であり、それぞれの生の最終的な一回性を保証することこそ輪廻の特色ではなかったろうか。とりわけ、人間存在と神との間には時間的なズレがあり、人間は記憶の中においてのみ神と出会うという今西の説は、本多にその生涯と旅とを見渡させて、茫漠たる想いへ誘うようなものを含んでいた。(『暁の寺新潮文庫 p.219)

 「輪廻」と「復活」との間に微妙な径庭を見出そうと努める思索の企図が、如何なる根拠に基づいているのか、この時点では然して明瞭には示されない。無論、作者は唯識の仏説に関する長大で煩瑣な祖述を通じて、「輪廻」という観念が、常住不変の同一的な主体の「復活」とは異質な論理に基づいていることを予め入念に読者に向かって告げている。三島の解説が正統の仏説と完全に照合するものであるかどうか、浅学菲才の筆者に判断する力量は備わっていないが、彼の言葉を信じるならば、「輪廻」とは同一的な主体の反復的な生存を意味するものではなく、我々の住む世界の「離散的な更新」という基礎的構造を論じるものなのである。

 唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに現われている、ということに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、又新たな世界が立ち現われる。現在ここに現われた世界が、次の瞬間には変化しつつ、そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであった。……(『暁の寺新潮文庫 p.163)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

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