サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「明晰」の極限的形態 三島由紀夫「天人五衰」 3

 三島由紀夫の『天人五衰』(新潮文庫)を読了したので、改めて感想の断片を認めておきたいと思う。

 この「天人五衰」を以て掉尾を飾ることとなる厖大な「豊饒の海」の全篇は悉く、三島由紀夫という一人の異才の文豪が長年に亘って真摯な追究を重ねてきた、或る個人的な倫理学の精髄を露わに示すことに向かって入念に組み立てられている。その個人的な倫理学が「美的価値を総てに優越させること」によって構成されていることは、過去の記事において既に詳しく述べておいた。しかも三島にとって「美的価値」は常に感性的で経験的な領域に属する現象的形態として定義されており、従ってそれは必ず「肉体」の範疇に組み込まれている。「肉体」は「時間」の不可逆的な法則、極めて峻厳な「腐蝕」の摂理に縛められており、時間の経過と共に必ず衰亡の一途を辿る。そこから三島的な倫理学における必然的な要請、傍目には不可解な異常と映じるであろう一つの道徳的な要求が導出される。即ち「夭折」である。

 ……それにしても、或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるという天賦に恵まれている。俺はこの目でそういう人間を見てきたのだから、信ずるほかはない。

 何という能力、何という詩、何という至福だろう。登りつめた山巓さんてんの白雪の輝きが目に触れたとたんに、そこで時を止めてしまうことができるとは! そのとき、山の微妙な心をそそり立てるような傾斜や、高山植物の分布が、すでに彼に予感を与えており、時間の分水嶺ははっきりと予覚されていた。

 もう少しゆけば、時間は上昇をやめて、休むひまもなく、とめどもない下降へ移ることがわかっている。下降の道で、多くの人は、ゆっくり収穫とりいれにかかれることをたのしみにしている。しかし収穫とりいれなんぞが何になる。向う側では、水も道もまっしぐらに落ちてゆくのだ。

 ああ、肉の永遠の美しさ! それこそは時間を止めることのできる人間の特権だ。今、時を止めようとする絶頂の寸前に、肉の美しさの絶頂があらわれる。(『天人五衰新潮文庫 pp.149-150)

 三島の信奉する審美的倫理学、或いは「唯美主義」の道徳は、いわば「剥製」の美学であると言い換えることが出来るだろう。美しさを時間的な衰亡の苛酷な宿命から救済する為に、物理的な死を媒介として「永遠」の領域へ移送すること、それが三島的な美学の理想的な形態なのである。彼は滅亡する人間の美しさに単純な酩酊を味わっているのではない。それならば三島の倫理学は必ずしも「夭折」の倫理的要請という奇態な格率を包含せずとも成立し得たであろう。彼にとって「滅亡」は「時間の廃絶」の為に要求される手続きなのであり、決して「時間に対する屈服」を意味するものではない。時間の峻厳な法則を免かれる為に、つまり「美」の剥製と化す為の不可避的な手段に過ぎないのである。

 こうした三島の審美的倫理学は必然的に「生の肯定」という尤もらしい健康的な道徳から乖離してしまう。感性的で経験的な「美」を唯一の倫理的な規矩として推戴する三島にとって、老醜を晒すことは忌まわしい悪徳である。換言すれば、生き延びようと試みる者は必然的に「老醜」の悪徳を積極的に引き受けなければならないのである。

 俺は時を止めることができずに、ただタクシーを止めつづけてきたのかもしれない。自分を又もや別の地点、そこでもまた時の流れ止まぬことのわかっている別の場所へ、断乎たる意志を以て、運ばせるため、そのためだけに。詩もなく、至福もなしに。

 ……詩もなく、至福もなしに! これがもっとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしかないことを俺は知っている。

 時間を止めても輪廻が待っている。それをも俺はすでに知っている。(『天人五衰新潮文庫 p.150)

 「美的存在」を「芸術作品」に置き換えて考えるならば、累代の転生を詳さに眺めてきた本多繁邦は明らかに「芸術家」の位置へ自らの実存を繋留していると言える。三島的な倫理学の簡潔で隠喩的な要約である「柘榴の国」の論理に従えば、本多は「記憶する者」としての自己規定を担って生涯を歩んで来たのである。「記憶する者」は決して「美的存在」そのものに自己の存在を擬することは出来ない。「記憶する者」が自らを「美的存在」として僭称するとき、彼に科せられる懲罰は「宿命の剥奪」と忌まわしき老醜に塗れた長生の日々である。

 だが、三島自身は、そうした審美的倫理学を肚の底から信頼していたと言えるだろうか? 例えば安永透に対する久松慶子の手厳しい糾弾は、三島の個人的な信念に対する残酷で明快な批判として機能している。

 この世には幸福の特権がないように、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もいません。あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。もしこの世に生れつき別格で、特別に美しかったり、特別にわるだったり、そういうことがあれば、自然が見のがしにしておきません。そんな存在は根絶やしにして、人間にとっての手きびしい教訓にし、誰一人人間は『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない、ということを人間の頭に叩き込んでくれる筈ですわ。(『天人五衰新潮文庫 p.292)

 慶子の弾劾は、並外れた美しさを持つ人間を「選良」として聖化し、美しさの絶巓において殺めることで「永遠」の位相へ移管しようと企てる三島的な倫理の根幹に対する致命的な反駁である。「選良」を否定する限り、三島が「柘榴の国」に関する記述を通じて明示した唯美的な論理は不可避的に破綻を来す。

 あなたはなるほど世界を見通しているつもりでいた。そういう子供を誘い出しに来るのは、死にかけた『見通し屋』だけなんですよ。己惚れた認識屋を引張り出しに来るのは、もっとすれっからしの同業者だけなんです。ほかの者が決してあなたの戸を叩きに来ることなどありません。ですからあなたは一生戸を叩かれないですぎることもできたし、もしそうであっても、つまりは同じことだった。あなたには運命なんかなかったのですから。美しい死なんかある筈もなかったのですから。あなたが清顕さんや、勲さんや、ジン・ジャンのようになれる筈はありません。あなたがなれるのは陰気な相続人にだけ。……今日来ていただいたのは、あなたにそのことを、骨の髄まで身に沁みてわかっていただくためだったの」(『天人五衰新潮文庫 pp.300-301)

 慶子の残酷な糾弾に対して安永透が覚える劇しい瞋恚の感情は、三島の内部に蟠っていた「絶望」の代理的な表現なのだろうか。こうした鮮明な自己批判を行ないながら、猶も自決の途を選び取った三島の荒廃した胸中を想像すると、私は戦慄を禁じ得ない。それは殆ど安永透の服毒による自殺未遂と等価であるように思われる。

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)