サラダ坊主日記

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「明晰」の極限的形態 三島由紀夫「天人五衰」 1

 目下、三島由紀夫の『天人五衰』(新潮文庫)を繙読中である。

 「春の雪」及び「奔馬」においては、情熱と行為との密接に絡み合った実存の形態に主要な焦点が宛がわれていた「豊饒の海」であるが、第三巻の「暁の寺」以降は徐々に主題が「認識=理智」の領域へ移行しつつある印象を受ける。無論、情熱的な「夭折」の反復的な形態ばかりを描き出すのに四巻もの重厚な冊数を充てる必要はないし、それだけでは物語の構造は頗る単調な代物に成り下がってしまうだろう。だが、この大部な小説の本来的な枢軸が「記憶される者」としての清顕や勲ではなく、飽く迄も「記憶する者」としての本多繁邦の許に据えられていると考えるならば、こうした主題の重心の変容は少しも奇態な現象ではないと言える。

 「春の雪」から「天人五衰」へ向かって着実に段階を経て深まっていく本多の「認識=理智」の精度は、認識的なものの発達と洗煉であると同時に、具体的な行為へ人間を駆り立てる感情的な活力の衰弱の過程でもある。そして「天人五衰」に至って新たに登場する、一連の輪廻転生の系譜に列なる存在であると思しき安永透という少年は、劇しい情熱の波濤に巻き込まれるようにして滅んでいった歴代の主役と違って、異常に研ぎ澄まされた「認識」の権能を有する異色の主人公である。歴代の主役が「見者」である本多と対蹠的なメンタリティの持ち主であったのとは異なり、安永透は本多の「同類」とも言える「見者」の豊饒な資質を備えている。

 無論「見者」であることが、単なる「行為」からの消極的逃避を意味する訳ではないことに、我々読者は留意しなければならない。「見者」として内在的な理智の力を存分に、狡猾に発揮していくことは、決して退嬰的な受動性の裡に自らの存在を幽閉する類の実存的形態を招来するものではなく、寧ろ本多が勝ち得たような社会的成功を齎す、赫奕たる可能性を大いに秘めている。却って果敢な情熱的行動家の系譜にこそ、深刻な社会的敗残の危険が充ちていることは、清顕や勲の駈け抜けるような生涯を徴すれば一目瞭然であろう。積極的で情熱的な行動家と、消極的で受動的な「見者」という二元論的な図式の適用を試みることは、この「豊饒の海」という作品の本質的な性格を誤解する原因となり得ることに注意を払わねばならない。

 果敢な勇者が社会的栄達を果たし、それを指を銜えて傍観している憐れな市井の心理学者が他方に存在する、という表層的で通俗的な図式(我々の玩弄する一般的な通念としての「外向=内向」の図式)は、この作品を成立させている「情熱=理智」の二元論的原理とは乖離している。見者たちの苦悩と煩悶は決して彼らが社会的な栄達から見放されているという理由に基づくのではない。寧ろ彼らは悲劇の英雄たちよりも遥かに手際良く巧妙な仕方で既存の社会的原理に適合し、古びた共同体の齎す潤沢な恩恵に充分に与っている。却って見者の苦悩は、悲劇の英雄たちのように「夭折」の宿命に呪縛されていないという幸福な事実に起因しているのである。見者たちの栄達と安逸は、決して悲劇的な記憶の原料には採用されない。彼らの長生と享楽は彼らの凡庸な社会性の確たる証拠に過ぎず、神秘的な特権化に値する要素は一つも発見されない。その原因が彼ら見者たちの持ち前である優れた「明晰」の特質に発源していることは恐らく確実である。彼らの並外れた「明晰」の資質、作中の人物で言えば本多繁邦と安永透の二人に象徴される「明晰」の資質が、彼ら自身から「夭折」という劇的で記念碑的な宿命の形態を剥奪し、所謂「記憶される者」として生存する権利を無慈悲に没収してしまうのである。

 換言すれば「明晰」という資質に恵まれた人間は、否が応でも「夭折」という破滅的な実存の形態から遠ざけられてしまうということになる。「明晰」という資質は人間をあらゆる愚昧な情熱、無謀な蛮行、軽率な暴挙から引き剥がし、賢明で安全な状況へ半ば宿命的に導いてしまう。一般的な通念に依拠するならば、そうした「明晰」の資質は紛れもない恩寵であり、幸福の基層を成すものである。だが、三島的な論理は、つまりその過度に審美的な倫理は、美しい者は美しさの絶巓において死ぬべきであるという絶対的な命題を孕んでおり、その観点から眺めるならば、長生の宿命を涵養する「明晰」の資質は寧ろ唾棄すべき悪徳の範疇に属するものと看做されてしまうのである。

 老いてついに自意識は、時の意識に帰着したのだった。本多の耳は骨を蝕む白蟻の歯音を聞き分けるようになった。一分一分、一秒一秒、二度とかえらぬ時を、人々は何という稀薄な生の意識ですりぬけるのだろう。老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さえ具わっていることを学ぶのだ。稀覯きこうの葡萄酒の濃密な一滴々々のような、美しい時の滴たり。……そうして血が失われるように時が失われてゆく。あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせていたすばらしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに。

 そうだ。老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときはすでに、酩酊に足るほどの酒は失われている。なぜ時を止めようとしなかったのか?(『天人五衰新潮文庫 p.147)

 「時間の廃絶」は、三島的な倫理学における最も重要な教義である。清顕や勲が身を以て示した壮烈な「夭折」の末期は、崇高な「美的存在」を無際限に堆積していく「時間」の、砂を嚙むような単調な反復的持続から庇護する方策の鮮明な実例である。三島にとって「老醜」は最大の悪徳であり、一つの禍々しい罪過であり、しかもそれは「明晰」という理智的な特質にその淵源を有しているのだ。

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)