Cahier(時間の雫)
*三十五歳になった。年齢の目盛りが一つ進んだところで、日々の生活に根本的な変化が生じる訳ではない。新生児と一歳児との間に、巨大で劇的な成長の過程が横たわっているのとは違って、三十四歳から三十五歳への移行の歳月には、傍目には何の区別もつかない微細な変化の堆積しか存在しない。加齢と共に、体感の上では時間の経過が早まって感じられると言われるが、それは自己の変化の乏しさを暗示しているのかも知れない。生まれたての赤児が、一年も経てば二本の脚で立って歩き、幼いながらも言葉を話し、母乳以外の食物を摂取するようになる。そのような劇しい変容に比すれば、薹の立った人間の過ごす漫然たる一年間が夢幻のように瞬く間に過ぎ去るのも必然である。三島由紀夫が晩年の大作「豊饒の海」で、老境を迎えた本多繁邦に次のような感慨を語らせている場面を俄かに想い出す。
老いてついに自意識は、時の意識に帰着したのだった。本多の耳は骨を蝕む白蟻の歯音を聞き分けるようになった。一分一分、一秒一秒、二度とかえらぬ時を、人々は何という稀薄な生の意識ですりぬけるのだろう。老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さえ具わっていることを学ぶのだ。稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のような、美しい時の滴たり。……そうして血が失われるように時が失われてゆく。あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせていたすばらしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに。
そうだ。老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときはすでに、酩酊に足るほどの酒は失われている。なぜ時を止めようとしなかったのか?(『天人五衰』新潮文庫 p.147)
この感慨を信じるならば、我々が「時間」の重みを失念する最大の理由は、それが潤沢であるからという点に帰着することになるだろう。或いは「瞬間」というものに対する感覚の鈍麻が直接的な要因だと考えることも出来るかも知れない。子供は移り気で、一つ一つの些細な「細部」に異様な関心と鋭敏な感受性を示す生き物である。大人が見過ごすような細部を察知し、大人が直ぐに忘れ去るような無意味な記憶を鮮明に保持している。これほど鮮明な現実の享受が「時間」の途方もない重量と結び付くのは当然である。彼らが退屈を忌み嫌い、単調な現実に対する堪え難さを即座に訴えるのも、彼らの享受している一つ一つの「時間」が極めて強烈な重さと濃度を備えていることの反映かも知れない。
徐々に我々は「瞬間」から遠ざかることを学ぶ。一つ一つの「時間」に着目して足を止めていたら、到底躰が幾つあっても足りないような「雑事」に追われるのが社会に属する人間に課せられた一般的な宿命であるからだ。我々は公私を問わず無数の課題に追い立てられ、じっくりと腰を据えて二度と還らない貴重な現在に向き合う機会を滅多に珍重しない。限られた「時間」は瞬く間に消費され、繁忙な生活の景色は、我々の網膜に固有の痕跡を留める暇もなく後方へ流れ去って瀧壺へ没していくのである。繁忙な我々は、生活の様々な側面を概念的に理解して憚らない。誰もが生活を「同じことの繰り返し」として捉え、過去の事例と眼前の現在とを重ね合わせ、細部の相違点は気軽に捨象して躊躇いもしないのである。子供にとって、世界は常に新鮮であり、過去の事例の蓄積に「現在」を還元する大人の省力的な手法を身に着けていない。彼らは如何なる判例も伝統的な法律も弁えない無学な裁判官のように、提示された問題に就いて都度、解決の方策をゼロから生み出さねばならない立場に置かれている。そういう境遇が「時間」の重量を積み増すことは明らかで、世界の総てが新鮮である限り、一つ一つの「現在」の記憶は自ずと濃密な内容を獲得することになる。世慣れた大人が繁忙な日々を乗り切る為に、押し寄せる現実の概略だけを器用に選り分けるのとは、対蹠的な生き方であると言えるだろう。現実を過去のパターンの反復や再演として捉える認識の方法は、我々の思考の負担を軽減する為の便宜的な措置である。事実、そうでもしなければ繁忙な生活の局面を踏み越えて生き延びることは困難になるだろう。だが、生きることを味わう為には、つまり「稀薄な生の意識」を脱して「時」に含まれた「酩酊」を堪能する為には、こうした繁忙な生活の作法を革める必要がある。「悪しき前例主義」(別に菅総理の口吻を真似ている訳ではない)が齎す代表的な弊害は、眼前の現実に対する我々の感受性の磨滅である。総てが過去の事例と結び付けられ、定められた法則の反復に過ぎないと看做されるのであれば、そもそも「時」に内在する「酩酊」の成分を認識することさえ不可能である。恐らく三島由紀夫は「稀薄な生の意識」から脱却する為に「死」という劇薬の効用を駆使する暴挙を択んだ。何故なら「稀薄な生の意識」は、有限の「時間」を無尽蔵の潤沢な資産として誤認する思考によって培養されるものであるからだ。この瞬間の現実は二度と回帰しないという切実な真理を悟る為には、いっそ未来を丸ごと断ち切ってしまうのが簡便であり確実であるという訳だ。「死」の自覚は、我々の「生」を貴重な「時間」の濃縮された形態へ作り変える。「老人は時が酩酊を含むことを学ぶ」のは言うまでもなく、彼らの生活が拭い難い「死」の予感と接している為である。