My Own Scarface 安部公房「他人の顔」
安部公房の『他人の顔』(新潮文庫)を読了したので、感想文を認める。
業務中の不慮の事故で顔面に深刻なケロイドを負い、自らの「容貌」を喪失した男が、精巧な仮面を作り上げて他者との関係の恢復を試みる「他人の顔」の筋書きは、如何にも安部公房らしい主題を含みながら、極めて錯綜した重層的な構造を展開している。予てから「自己」の連続性や同一性に対する根深い疑念を、固有のオブセッションとして明瞭に表出してきた作者にとって、この「他人の顔」における「顔の喪失」という決定的な事件が、年来の課題と密接に関連した重要な意義を孕んでいることは確実である。「顔の喪失」によって惹起される周囲との関係の致命的な変容は、自己同一性に対する語り手の蓄積された伝統的な確信を揺さ振り、不安定化させる。
そのときの狼狽の奥にかくされた意味を、ぼくはまだ本当には理解出来ずにいたようだ。身もだえするほど恥入りながら、しかし何に対してそれほど恥入っているのか、まだ正確にはつかめずにいた。いや、その気になれば、出来なくはなかったのかもしれないが、本能的に深みを覗くことを避けて、せいぜい「大人気ない行為」といった、ありきたりな慣用句の陰に身をさけていたのかもしれぬ。どう考えてみても、人間という存在のなかで、顔くらいがそれほど大きな比重を占めたりするはずがない。人間の重さは、あくまでもその仕事の内容によって秤られるべきであり、それは大脳皮質には関係しえても、顔などが口をはさむ余地のない世界であるはずだ。たかだか顔の喪失によって、秤の目盛に目立った変化があらわれるとすれば、それはもともと内容空疎であったせいにほかなるまい。(『他人の顔』新潮文庫 pp.16-17)
「顔の喪失」によって俄かに齎された自己同一性の危機を、語り手は懸命に否認する。しかし、実際に「顔の喪失」が自己と他者との関係性の構造に不可逆的な変化を強いるのだとすれば、自己同一性の重要な支柱としての「顔」の価値は必然的なものとなる。言い換えれば、我々が「自己」という観念によって包摂している範囲や対象は、顔面に蒙った火傷の為に容易く覆されるほど脆弱な信憑に過ぎないのである。「ぼく」の懐いていた通俗的な信念は逃れ難い危殆に瀕し、妻との性的な関係さえ断絶してしまう。「顔の喪失」は「自己の喪失」に限りなく等しい事件であることが、具体的な事実の提示によって証明されたのである。
そうであるならば当然、精巧な仮面の製作という「ぼく」の孤独な計画は「顔の恢復」を通じた「自己の恢復」を含意するものであると定義されるべきだろう。しかしながら語り手である「ぼく」は、旧来の自己の純然たる再生の為に、精緻な仮面を完成したのだと言えるだろうか。彼は自画像に基づいた仮面、仮面であることを明示した仮面を作る代わりに、得体の知れぬ「他人の顔」を拵えて、本来の自己へ回帰する代わりに「誰でもない他人」に扮することを選択した。その計画の眼目を「本来的な自己の恢復」という表現で要約するのは、厳密に考える限り、事実に反する解釈である。
そのうち、急にそれまでの苛立たしさが消え、ぼくは変にたかぶった、挑戦的な気持になっていた。どうやら、仮面にまで酔いがまわりはじめたらしい。――顔、顔、顔、顔……汗のかわりの涙でうるんだ、眼をこすり、ぎっしり店内を埋めつくしている無数の顔を、タバコの煙と騒音をかき分けながら、これ見よがしに睨みまわしてやる……どうだ、文句があるなら言ってみろ!……言えはしまい?……言えるはずがないさ、そうして酒を飲みながら、くだを巻いているということ自体が、仮面をうやまい、憧れていることの証拠なんだからな……上役の悪口を言ってみたり、知人の知人の知人がいかに大物であるかを自慢してみたり、つまりは素顔以外のものになろうとして、やっきになっているんだ……それにしても、まったく下手な酔い方だよ……素顔には、仮面のような酔い方など、絶対に出来っこないのさ……素顔に、出来ることといったら、せいぜい酔った素顔どまりだからな……死ぬほど泥酔しても、やっと仮面の近似値で、仮面そのものにはなれっこない……もし、氏名や、職業や、家族や、戸籍までも拭い去ってしまおうと思えば、致死量をこえた毒薬にでもたよるしかないのだ……だが仮面はちがう……仮面の酔い方は天才的なんだ……一滴のアルコールの力さえ借りずに、完全に誰でもない人間になりきることだって出来るのだ……現に、この、ぼくのように!(『他人の顔』新潮文庫 pp.177-178)
失われた「顔」の跡地に生じた空白を補填する為の精巧な「仮面」の計画は、当初の目的である「自己の恢復」という主題から逸脱し、徐々に「自己からの脱出」に伴う奇態な陶酔への欲望に吸引されていく。ケロイドに覆われた「蛭の巣」でさえ、一つの「顔」であり「自己」である点においては、普通の「素顔」と同族である。若しも彼が自己同一性の保持に心から固執するのであれば、寧ろ「蛭の巣」という新しい「素顔」に固有の価値を見出そうと努めただろう。しかし、横滑りした「仮面」の計画は、望外の心理的収穫を彼に授ける。「誰でもない人間」に転身することの異様な興奮、あらゆる種類の社会的制約を解除された、放埓で透明な「自由」の生み出す特権的な陶酔に、彼は中毒してしまうのである。自己同一性の断絶という危機は、却って彼の特別な幸福を成立させる重要な土壌の役割を担う。完璧な「匿名」という条件に附随する法外な「自由」の甘美な味わいは、他者との具体的な関係を恢復しようとする健全な社会的欲求を頽廃させ、専ら抽象的な人間関係に対する「痴漢」の欲望を急激に増殖させる。妻との関係の再建を望みながら、精巧な「仮面」の魔力を拝借して見知らぬ「誘惑者」の立場を演じようとする「ぼく」の企図は、明瞭な矛盾に引き裂かれているのだ。
でも、もう、仮面は戻ってきてくれません。あなたも、はじめは、仮面で自分を取り戻そうとしていたようですけど、でも、いつの間にやら、自分から逃げ出すための隠れ蓑としか考えなくなってしまいました。それでは、仮面ではなくて、べつな素顔と同じことではありませんか。(『他人の顔』新潮文庫 p.267)
妻からの痛烈な批判の書置きは、彼が陥った欺瞞的な泥濘の構造を明晰に照射し、剔抉している。けれども、その糾弾の声音は残念ながら夫の改悛には帰結しなかった。寧ろ、抽象化された人間関係、純然たる物質に還元されたかのような、無機質な人間同士の関係に潜む固有の可能性を、彼は最後まで追求しようと試みている。言い換えれば、人間は誰しも「自己同一性」の呪縛に責め苛まれ、無益な苦痛に耽溺しているというのが、人類の伝統的特質に関する「ぼく」の切実な見解なのである。歴史的文脈や地理的環境から「自己同一性」の核心的な部分を切り離すこと、自己の現在を特定の「本質」と結び付けて「宿命」に甘んじようとする旧弊な生き方を、彼は再審に附している。宿命的な関係だと思われたものが、所詮は可変的で恣意的な紐帯に過ぎないことを明確に表現することで、作者は「自由」の生み出す果実の価値を綿密に測り直しているのである。