サラダ坊主日記

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ニヒリズムの多様な範型 三島由紀夫「鏡子の家」 4

 引き続き、三島由紀夫の『鏡子の家』(新潮文庫)に就いて書く。

③「自然」と「実相」に基づくニヒリズムの超越的性質

 あらゆる他者の存在を「鏡」のように扱い、己の外面的な価値を確かめることで内在的な虚無に抵抗する舟木収のナルシシズムは、高利貸を営む辣腕の社長である秋田清美という「醜い女」との邂逅を通じて、急激な転回を遂げることとなる。

 口もともそんなに悪くはないのに、小鼻の怒った鼻がすべてをぶちこわしている。体は中肉で均整がとれているが、脚は大そう太く、それを目立たせるかのように踵のない靴を穿いている。そして身のこなしがひどく固いのである。

 一瞥して収は、醜い女だ、不吉な鳥のような女だと思った。こういう女が何をたのしみに生きているのか、収には想像することができない。(『鏡子の家新潮文庫 p.349)

 冷静且つ客観的に眺めれば、作者の筆鋒は無礼なほどに秋田清美の醜貌を強調している。この端的な事実に基づいて言えるのは、作者が「醜い女」の典型を、舟木収の実存的な物語の中に登場させる必要性に迫られているということだ。換言すれば、秋田清美という女性の抱懐している実存的な戦略は、収の根深いナルシシズム的実存の様態に対して、重大な影響を及ぼす資格と権能を備えているのである。

 通例、愛されない人間が、自ら進んで、ますます愛されない人間になろうとするのには至当の理由がある。それは自分が愛されない根本原因から、できるだけ遠くまで逃げようとするのである。

 清美の場合は、これとはちがっていた。根本原因から、すなわちその顔の醜さから、一歩も逃げようとしていなかった。その醜さを作ったのは自然であるのに、清美は自然を信仰していた。そしていつかしら醜い顔を、自然の真相の、象徴的なあらわれだとすら考えるようになった。それは山のはざまに荒々しい形を露呈している蒼黒い巌の顔や、春、微生物の繁殖が海のおもてにえがく、嘔吐を催おすような色の巨大な顔や、古木の洞にコルク質や茸が堆積して作る真黒な顔や、……そういう顔と同じようなものである。ついには醜さが清美の役割になり、仮面になった。祭の踊り手が奇怪な仮面の顔をあちこちへ振向けるように、清美はその醜い顔を、あまたの債務者のおのおのへ振向けるだけでよかった。それで何人かが確実に死んだのである。(『鏡子の家新潮文庫 p.358)

 こうした論理には「金閣寺」に登場する柏木の陰翳が被さっているように感じられる。美的なものの幻想的な性質を排し、飽く迄も苛烈な「実相」を暴き出すことに倫理的な意義を、或いは実存的な戦略を見出すという柏木の方針は、秋田清美の信奉する「自然」の論理と類似している。

 清美の使命は、苛酷な現実の真相を剔抉して、それを衆目に晒すことである。如何なる甘美な幻想も壮麗な耽美も、彼女の悪魔的な論理の前では虚しく砕け散るしかない。

 真暗な壁の前をうろうろして、せいぜい電気洗濯機やテレヴィジョンを買う夢を見る。明日には何もないのに明日をたのしみにする。その場へ私が出て行って、裸の現実を見せてやるだけで、みんな仰天して自殺したり心中したりという騒ぎになる。月賦販売や保険と同様に、私はただ時間の正確な姿を見せてやるだけにすぎないのに。そうして私のほうが確かに親切なんだわ。ころげおちる時間、斜面の時間、加速度の時間、……それこそ本当の時間なのに、月賦販売業者が見せてくれるのは、猫かぶりの時間、平坦な時間、糖衣にくるんだ時間の姿なんですから」

 清美はこの世の真相を人々に見せたいと希んでいた。それが清美のいわゆる自然であった。(『鏡子の家新潮文庫 p.357)

 清美の信じる「自然」や「裸の現実」の酷薄な形態は、明らかにニヒリズムの強靭な源泉である。彼女はニヒリスティックな現実に直面することこそ、最高の「救済」であると看做している。無意味な現実、如何なる意味にも価値にも保護されていない裸形の現実、それだけが彼女の信仰の対象なのだ。だが、そこには様々な意味や価値に覆われた人間の社会に対する隠然たる悪意と敵愾心が屹立している。意味に縋り、ニヒリスティックな現実を峻拒しながら生きようと試みる人間の生の一般的な様態を、清美は真っ向から否定しているのである。ニヒリズムに対する拒絶は、清美の論理に従うならば「反自然的なこと」(p.356)なのである。

 清美の話題は又死のことに戻った。あの真実の時間、傾斜し、加速度にころげおちるあの時間、あれを自分の掌中に納め、あれを手綱のように握って自分は別の平坦な時間を御してゆくことに、しんから退屈した彼女は、今度は自分があの急斜面を辷り下りてみたいと希むようになっていた。真相を保持しているだけでは物足りず、自分が真相そのものになること、自分が事件そのものに化身すること!(『鏡子の家新潮文庫 p.359)

 予定された「死」に基づいて一切の実存的な価値を剥奪すること、それによって「平坦な時間」に対する超越的な自由と権力を確保すること、これは三島由紀夫の過去の作品、例えば「青の時代」の川崎誠が懐いていた、実存に対する侮蔑的な自由に酷似している。彼は毒薬を保持し、自らの生涯を何時でも切断し得る手段を確保することで、一般的な生の「平坦な時間」を制約する諸々の観念的な抑圧を免かれた。自らを死者に擬することで、生者の世界に冒瀆的な介入を行なう自由を得ること、それがニヒリズムの積極的な性質である。

 だが、そうした生き方は如何なる瞬間においても「死」に対する恐懼や不安を所持してはならない。死に対する否定的な判断が混入した瞬間、豪胆なニヒリストの危うい綱渡りは惨めな失墜に変貌する。生に対する一抹の執着さえ、ニヒリストの超越的な論理を崩壊させる致命的な痛撃の役割を果たすのである。

 換言すれば、ニヒリストが生に対する超越的な自由の特権を確保する為には、死に対する積極的な欲望の介在が不可欠なのである。タナトス、つまり死に対する衝動だけが、ニヒリスティックな自由を支える唯一の根拠なのだ。

 こうした清美のニヒリスティックな論理と、常に他者からの承認と欲望を我が身に享けることで自己の実在性を確認する収の論理が相互に逢着したとき、如何なる状況が現出するだろうか?

 世の常の関心では飽き足りず、収が求めていたのは、彼に対するひりひりするような苛烈な関心だった。彼を愛撫するだけでは足りず、彼を腐蝕するような関心だった。今まですべては彼の肌の上をとおりすぎただけであったが、自分の存在をたしかめるために、あの一瞬の痛みにまして確実なものはなかった。彼が正に必要としていたのは痛苦だったのだ。(『鏡子の家新潮文庫 pp.392-393)

 自己の実在性に関する絶えざる疑念、いわば自己の「無意味」に囚われるという形式のニヒリズム、それが舟木収という人格を支配する実存的な特質である。彼は「自意識のニヒリズム」が生み出す精神的な飢渇に抗すべく、美しい外面に自己の実存的な根拠を置こうと努めた。他人の欲望の対象に自らの優れた外面を供することで、つまり他人に求められ願われることで、彼は自己の実在を確認することが出来たのである。しかし、そうした充足は束の間の幻影に過ぎず、彼が抱懐している「実在の不全」という感覚は決して根本的な快癒を見なかった。何故なら、それは飽く迄も自己の外面に対する関心、即ち「彼の肌の上をとおりすぎただけ」の関心に過ぎず、鏡の投影を経由することで初めて確かめられる実在感の水準を超えなかったからだ。彼はその飢渇を肉体の鍛錬によって埋め合わせようとしたが、それさえ充分な実在感の確保には帰結しなかった。他人を経由するのではなく、自律的な仕方で実在の感覚を保持すること、それが収の最終的な理想の形態なのである。

 だが、如何なる他者の承認も伴わずに、人間が自己の存在を定義して、そこに意味を賦与することは原理的に不可能である。何故なら、意味というものは常に社会的な性質を備えており、決して自律することの出来ない、いわば「関係性」そのものの凝縮された姿であるからだ。

 収の特異性は、彼の人格が他者の「関心」に対する深甚な依存を宿している点に基づいていると思われる。彼にとって「肌の上をとおりすぎただけ」の関心が物足りなく感じられるのは、そこに若干の「間隙」が介在している為であろう。彼が欲するのは、自他の境界線を突破すること、自他の存在を融合させること、自己という輪郭そのものを抹消することではないのか。空っぽの自分を補填する為に他者の存在を要求する収の実存的な野心が向かう最終的な目標が、自他の境界線を超越した「融合」に置かれるのは少しも奇態な論理ではない。

 だが、彼は愛する者との根源的な融合という不可能な夢に単純で感傷的な憧れを懐けるほど軽率な人間ではない。そういう夢想に殉ずることが出来るならば、彼の苦悩はもっと凡庸な解決策によって報われたかも知れない。彼が空虚な自己を解消する為には、つまり自己の「価値」を実感する為には、単なる想像的な融合の感覚だけでは不足している。

 自分の脇腹に流れる血を見たときに、収は一度もしっかりとわがものにしたことのなかった存在の確信に目ざめたのである。ここに彼の若々しい肉があり、それを傷つけずにはやまない他人の強烈な関心があり、絶望的な愛の情緒が彼に向けられ、かくてつかのまの爽やかな痛みがあり、まぎれもない彼自身の血が流れていること、……これで存在の劇がはじめて成立し、痛みと血が彼の存在を全的に保証し、彼の存在をめぐる完全な展望がひらけたといえる。『これこそは世界の裡における存在のまぎれもない感覚なのだ』と収は思った。『僕ははじめて望んでいた地点に達し、すべての存在の環につながったのだ』やさしい、なまめかしい血の流出。肉体の外側へ流れ出る血は、内面と外面との無上の親和のしるしであった。彼の美しい肉体が本当に存在するには、筋肉の厚い城壁に囲まれていたままでは、何かが足りない。つまり血が足りなかったのだ。……しかも収に存在を確信させてくれた痛苦と血は、いずれは収の存在を滅ぼすためにしか働かないだろう。(『鏡子の家新潮文庫 p.393)

 「存在の確信」とは何か。自分がこの世界の内側に明確に存在しているという実感は、何によって齎されるのか? それが己の肉体から流れる「血」と、己の肉体が感受する「痛苦」によって齎されるという奇怪な論理は、如何なる条件に依拠しているのか?

 彼は「存在の確信」に餓える日々を過ごしてきた。彼は自己の実在性の感覚を得る為には、必ず他人の視線と欲望を希求する。言い換えれば、彼は外在的な事物、つまり「鏡」や情婦といった自己の外部に存在する事象の中に見出される「自己の反映」だけを手懸りに、自己の存在を確認するという迂遠な手続きの累積の中で生き延びて来たのである。自己の存在の保証を、他者への投影の内部にのみ求め得る状態、だが、それは収の望む理想的な実存の形態ではない。それらは飽く迄も暫定的な次善の方策に過ぎない。彼はもっと確実な「存在」の保証を欲している。

 こういう言い方が適切かどうかは分からない。若しかすると、収が他者に求めていたのは、官能的な欲望や好意ではなく、つまり一般的な女の愛情ではなく、敵意や憎悪や殺意だったのではないか? 自分の存在を滅ぼそうとする他者の破壊的な欲望、それを通じて、彼は「すべての存在の環」との関係を恢復する。それは紛れもなく、他者への全面的な癒合、全面的な屈服、全面的な隷従に対する実存的な要請である。他者の手で破壊され、自己の輪郭を消去されること、それによって「死」を通じた絶対的な他者への参入を果たすこと、これこそが収の憧れる最終的な理想の姿ではないだろうか? その予感に囚われることで初めて、彼は「存在の確信」に辿り着く。無論、それは破滅的な逆説に支えられた脆弱な信憑であろう。

 死の予感によって生を支えること、それは三島由紀夫の造形した数多のキャラクターに共通して見られる実存的な戦略である。だが、収における「死」は、例えば「青の時代」の川崎誠における「死」の戦略的な操作性とは異質である。川崎誠は「毒薬」を所持することで常に自殺という遁走の選択肢を握り締め、それによって生に対する冒瀆的な自由を確保するというニヒリスティックな戦略を展開していた。その写し絵は、秋田清美というキャラクターの裡にも見出すことが可能である。だが、収にとって最も重要な課題は、生に対する冒瀆的な自由、裁量、権限を獲得することではない。彼の切実な目標は「存在の確信」を手に入れることである。

 秀麗な美貌に恵まれても、頑健な肉体を作り上げても、他人の賞讃と陶酔に取り巻かれても、彼の希う「存在の確信」は到来しない。最終的に必要であったのは、結局のところ「死を感じる」という一点に尽きるのではないか。死の危険を実感することで、相対的に自己の存在を確認することが出来るという論理は、それほど突飛な代物ではない。

 収はその日以後、こんな情死の観念に憑かれてしまった。昼も夜も、たえず脳裡にこの考えがあった。しかし痛みと云っても剃刀の刃のほんの軽い一触しか思いうかばず、自分の本当に求めているものが痛苦だとわかっていても、すぐその観念上の痛みには快楽がまじって来ていた。すると死も、舞台の上の死と同じことになった。

 死の決して繰り返されぬ性質が、収の空想を安易にしていた。空想はどんなに安易であってもよく、空想上の感覚がいかに実際と隔たっていてもかまわない。何故ならこうした空想の重なりの果てに、実際の死にいよいよ手をつければ、行為は仮借なく進行し、死は現前して、二度とくりかえされることはないからだ。(『鏡子の家新潮文庫 pp.394-395)

 死の予感が生の実感を保証するという論理自体は凡庸であろう。しかも、そのとき予測される死の様態は所詮、生きている人間の拵えた空想に類するものであるに過ぎない。換言すれば、そのとき人間は空想の中で「死という観念」と戯れているだけであり、本当の物理的な「死」は必ずしも重要な意義を持たないのである。

 彼は本当なら、持ち前の見栄からも、美しい女と死にたい。しかし現実の美しい女は、彼に死を冀わせるに足りないのである。だから清美の顔のことは考えまい。清美の魂のことだけを考えよう。それは暗鬱な魂、他人の不幸と自分の絶望とに鍛えられた魂で、収の内部に力づよく浸透して来て、彼の若い血まみれの体を望んでいた。その目は世界の外側から彼を見張り、彼のぐらぐらした存在を漆喰でこの世の上にしっかりと固め、彼の証人になり、……そうして彼の肉と血を欲しがっているのである。(『鏡子の家新潮文庫 pp.395-396)

 清美が収に寄せる絶対的な関心、それは殺意や憎悪と同等の性質を備えた愛情の形態、例えば「愛の渇き」で杉本悦子が示した死臭の漂う愛情の形態である。「絶望的な愛の情緒」は、健全で倫理的な愛情、相手の自立と尊厳を庇護するような肯定的な愛情とは完全に異質なものであり、端的に言えば「妄執」である。だが、そもそも収は生半可な「愛情」では満たされず、もっと他人の病的な執着を欲していたのだ。極限まで強められた妄執は、他者を破壊し咀嚼する強烈な衝動に転化する。その衝動が「情死」という現実を齎すとき、舟木収という人格の輪郭は解体され、存在の総てが他者に吸収され、併合される。完全な所有、完全な隷属、完全な毀損が成し遂げられる。

 そんな事件は無数に起っていた。しかしみんな架空の出来事だった。世界中が、張りぼての大道具に囲まれた、表側だけの、異常に明るく照らされた、夜も昼もない劇場になってしまっていた。

『僕は求められている。僕には役がついた』

 一つの比喩のように、収はそう考えることを好んだ。すると架空の世界が自分のまわりで独楽みたいにぐるぐる廻りだすような気がした。彼は熱烈に求められている。搾り皿の上で果汁を搾り出される檸檬のように求められている。粉々にされてしまうまでに求められている。(『鏡子の家新潮文庫 pp.396-397)

 他人から絶対的な関心を向けられることで、自己の内面の空虚を補填し、他者の存在を全面的に受容することで「存在の確信」に到達するという迂遠な論理が「情死」という夢想に帰結するのは自然な成り行きであろう。彼は寧ろ自己の存在が徹底的に毀損されることを望んでいる。審美的な鑑賞と陶酔の対象という立場に留まるのでは物足りない。それだけでは、彼が「存在の確信」に到達する条件としては不充分である。殺意にまで高められた「絶望的な愛の情緒」が介在しなければならない。破壊され、呑み込まれることで初めて、収は自己の存在の実在性を信仰することが出来るようになるのだ。

 行きずりの娘たちの視線も、このひそかな傷口には届かない。人知れず蓄えられた傷は、流星みたいに彼を社会の外へ弾き出したのだ。『しかし僕はもう影じゃない。決して影じゃない。傷つき、痛み、滅んでゆく肉体だ』やがて彼の体は傷に埋まるだろう。清美と死ぬ前に、一度そこらの娘を連れ込んで、その目の前で裸になってやろう。娘はおどろいて目をおおうだろう。

 収はとある安酒場で、髪を長く伸ばした青年たちが、かれらの精神の傷についてくどくどと議論していたのを思い出した。収はこの連中を蔑んだ。精神の傷をみせびらかす奴らに、彼の肉体の傷を見せてやったら、おそらく言葉を失うにちがいない。自分たちが実は存在せず、精神は影の影であることに、ただの一度も気がついたことのないあの連中。(『鏡子の家新潮文庫 pp.401-402)

 精神的なものに対する収の侮蔑は、例えば「思考」に対する深井峻吉の侮蔑と、同一の方向性を有している。それは精神や意味や価値といった諸々の厄介な観念の喪失、つまりニヒリズムという疾病から快癒する為の方策だと、これまで私は考えてきた。だが、それは逆転した推論だったのではないかという気がする。意味や価値の否認、この世界には如何なる意味も価値も存在しないという強力な見解、それがニヒリズムの呈する最も主要な症状であるとするならば、彼らは寧ろ積極的に「虚無」を望んだのではないか? 峻吉が暴力的な政治団体に加盟し、聊かも信仰していない大義名分を借用して、怪我で止むを得ず断念したボクシングという夢の延長のように「敵」との戦いに身を投じたことも、煎じ詰めればニヒリズムという魔法を自らの実存の根底に据えたということに他ならない。或いは秋田清美の「自然」に対する信仰もまた、世界の無意味と無価値を積極的に承認するニヒリズムの典型的な事例に他ならない。収が「傷つき、痛み、滅んでゆく肉体」に固執するのも、彼が「精神」という「影の影」を信頼する意志を持ち得ないからであり、その背景には「精神的なもの」全般を虚妄と看做すニヒリズムの作用が濃密な影響を及ぼしている。

「誰がって、……僕と女だ。僕がするか、女がするか、要するに僕の肩をやさしく一叩きするだけで、僕は死の中へのめり込むんだ。その堺目がすっかり薄くなり、オブラートみたいに薄くなって、芝居と現実と、生きていることと死んでいることと、僕にはもう大した違いと思えないんだ。おかげでやっと僕は、人が立派だという肉体を持ち、若くて、健康で、何も考えず、何もせずに、ここにはっきり存在していることが自分でわかるようになったんだ」(『鏡子の家新潮文庫 p.140)

 如何なる意味も価値も認めないニヒリズムの視点に立脚すれば、空想と現実、生と死の間に大仰な区分を設ける必要性は皆無である。生きることも死ぬことも、恣意的な選択の俎上に載せられるだけで、そこには特権的なヒロイズムなど毫も存在しない。

 肉体が実在であることの最大の特徴は、それが滅亡を、換言すれば「死」を孕んでいるからである。「影の影」に過ぎない精神には元来、滅亡という危殆の萌芽が含まれていない。滅亡は、それが確かな実在であることの逆説的な証明なのだ。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)