サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「ゴルギアス」に関する覚書 3

 享楽への根深い執着に依拠して生きる「ヘドニズム」(hedonism)との対決は、倫理学における重要な課題の一つである。ヘドニズムは「苦痛=欠乏」と「快楽=充足」との一体的な融合としての「欲望」に依存し、欲望の充足を通じて得られる刹那的な快楽の経験を無限に反復することを望む。ヘドニズムは快楽に対する「嗜癖」(addiction)であり、瞬く間に揮発する単発的な快楽の獲得を、人生における至高の目的に据えている。

 快楽原則は、我々の実存を形作る基礎的な生物学的原則であり、その働き自体は生命の維持と発展において重要な役割を占めている。けれども、単純な快楽原則に従属し、動物的な本能に基づいて生きるだけでは、現在の人類の特権的な発達と成長は実現しなかっただろう。人間という種族の生物学的な固有性は、我々が知性の機能を駆使して、原始的な快楽原則の要求から逸脱することが出来るという点に存する。我々は随時、必要に応じて快楽原則の要求を拒否し、知性の羅針盤が指し示す方角に向かって、自己の活動の内容を規制する能力を備えている。我々の精神が、肉体の裡に内在する快楽原則と完全に合致し、如何なる逸脱も例外も許されなかったとすれば必然的に、人類という種族の特権的な革命性が開拓されることも有り得なかっただろうと思われる。

 本能からの逸脱(それを誇らしげに「解放」と呼ぶのは聊か厚かましく、且つ誇張が過ぎるだろう)は、人類の生活に多様な選択肢を与え、外界の現実に対する一定の独立性を担保する根拠となっている。快楽原則の命じる単調な指示に従うだけでは、現代の高度な文明が構築されることは不可能だっただろう。我々は時折、快楽原則の命じる軌道を踏み外すことで、現実に対する盲目的な隷属の境遇を脱却する。

 高度に発達した知性は、記憶や想定の機能を束ねて、或る綜合的な理念を作り出し、そうした理念の要請に基づいて、快楽原則の発する命令を適度に統制する能力を持つ。それは実存的な活動の目的を、単純な快楽の享受に限定しない為の措置であり、機構である。快楽原則からの逸脱によって、人間の実存的活動が及び得る範囲は一挙に拡張され、場合によっては快楽原則の発する指示に全く相反する行為へ踏み切ることさえ可能となる。換言すれば、こうした快楽原則からの逸脱は、人間の「自由意志」を析出する重要で決定的な「クリナメン」(clinamen)の生物学的表現なのである。

 自由であること、それは通俗的な誤解が示すように「総てを恣に操ること」を意味するものではない。快楽原則に限って考えてみても、我々の「逸脱」は本能からの全面的な解放ではなく、欲望の自在な制御や、況してや欲望の完璧な廃絶でもない。我々は不可避的に襲い掛かる必然性の制約から、僅かな「偏向」を掠め取るだけである。我々は自然の命じる必然性の掟を、任意に書き換える権能を授かっている訳ではないのだ。ただ、極めて僅少で突発的な逸脱が、我々の実存を徐々に「運命」の支配から遠ざけるのである。

 ヘドニズムは、快楽原則への全面的な隷属を意味する。内在的な本能の発する命令に唯々諾々と屈服し、数多の欲望を無際限に追求し続ける生き方は、実存的な「自由」の概念と全く相容れない妄信的な態度である。あらゆる社会的責務や倫理的規範を放擲してでも、主観的な快楽の経験を手に入れようと躍起になる人間の妄執を、自己の本心に対する忠誠と看做して称讃するのは差し控えるべきである。我欲の節制を旧弊な道徳的抑圧として斥け、感覚的享楽の減殺を非人間的な振舞いとして嘲笑するのは、現代の社会においては有り触れた通念だが、誰も快楽に耽溺して没落と破滅の途を辿ることに積極的な意義を見出しているとは思えない。

 ヘドニズムからの脱却は、単なる快楽原則の知性的な合理化を通じて実現される訳ではない。快楽原則の合理化は、器用で狡猾なヘドニストの育成に資するばかりである。それは快楽原則からの逸脱ではなく、寧ろ快楽原則への主体の最適化を意味している。換言すれば、ヘドニストは動物のように快楽原則への従属を旨としているが、その従属の形式は明らかに動物的存在とは異質な特徴を備えているのである。動物の欲望は、現在という瞬間に閉じ込められており、感覚的な現前の範囲を超出する能力を保持していない。一つ一つの欲望の周期は相互に断絶しており、快楽の記憶を再現する為に敢えて欠乏としての苦痛を探し求めるような奇怪な矛盾に依存することはない。彼らの満足は単純で、如何なる意味でも後腐れがなく、過程としての「快楽」の重要性が、成果としての「充足」の重要性を超過する虞もない。

 だが、そうした素朴な快楽原則からの逸脱が、恐らくは意識の「時間化」の過程によって惹起される。無時間的な意識においては、快楽原則は苦痛から快楽を経由して充足へ至る瞬間的な感覚の相次ぐ継起として作用する。動物的存在は過ぎ去った快楽の記憶を反芻する能力を持たない。そうした「想起」の能力は、時間化された意識の内部でしか発動し得ないからである。従って、特定の快楽を執拗に反復する、常軌を逸した「固着」に溺れる気遣いもない。彼らは単発的な欲望の継起に、その都度、刹那的に従うだけで充分なのである。だが、ヘドニストの実存的形態を、そのような動物的生存と安直に同一視するのは不適切な解釈である。彼らは人間であり、従ってその快楽原則は時間化され、過去の記憶に絶えざる参照の矢印を向ける。時間化された意識は、記憶と想定に基づいて特定の快楽を集中的に希求し、幾度もその感覚的経験の内部に回帰する。こうした行動の様態を実現する為には、動物的生存の原理を必ず脱却していなければならない。動物においてさえ、その主要な目的は「充足」の領域に存しているのに、ヘドニストの画期的な叛逆は「快楽」の大義名分に支配されて、最終的な「充足」よりも、その理想的境地へ達する為の便宜的な「道程」に、最大の関心を寄せるのである。従って、ヘドニズムを「動物的実存」と称するのは、大いなる謬見であると言わねばならない。ヘドニズムは明らかに人間的な実存の様態である。原始的な快楽原則の発する肉体的要求を、知性の働きを借りて歪曲するという点において、ヘドニズムはあらゆる種類のストイシズムと同質の原理に依拠している。我々の知性は、我々自身から原始的な法則を奪い去り、所謂「本能」の働きを、つまり生命体に内在する自動的な理念の働きを解除してしまう。サルトルの掲げた「人間は自由の刑に処せられている」という実存主義的命題は、本能からの逸脱を定められた畸形的な動物としての「人間」の異様な特徴を明晰な表現で言い当てているのだ。

 ヘドニズムを「動物的態度」と呼んで厳格に論難し、それを非人間性の確固たる証拠として声高に糾弾するのは聊か的外れで軽率な振舞いである。ヘドニズムは、動物的原理としての「快楽原則」とは異質な性質を備えた現象であるからだ。無論、ヘドニストが「快楽」と呼ばれる感性的経験によって実存における主体性を収奪され、実質的に「快楽」の「奴隷」と化していることは確かな真実である。けれども、そうした事実は、ヘドニズムが動物的な生態への退行を意味するという安直な命題を立証しない。本来ならば「手段」に過ぎない筈の「快楽」を、人間の実存における最終的な「目的」の地位にまで高めてしまう奇態な精神的歪曲の操作は、明らかに「本能」の制約から解き放たれた人間だけが為し得る危険な倒錯の一例である。重要なのは、人がそのような倒錯を選び取ることの「真意」を探究することである。ヘドニズムを動物的形式として批判するのは単なる素朴な罵声の発露に過ぎない。ヘドニストの「目的」とは一体何なのか? 彼らは何故、刹那的な経験としての「快楽」に過剰な執着を示すのか?

 このとき、快楽の有する逆説的な性質が、再び想起される必要を帯びる。快楽は常に苦痛の介在を要請するという基礎的な公理が、無限に循環する欲望の報われない「輪廻」を惹起することに我々は注意を払わねばならない。若しも我々の幸福論が最終的に「充足」を目指すのならば、享楽における無限の反復的衝動は悪徳として排斥されねばならない。何故なら、快楽の本質は「充足の否定」を不可避的に含有しているからである。「充足の否定」即ち「欠乏」が事前に存在しない限り、我々は感性的経験としての「快楽」を堪能することが出来ない。「快楽」に固執する限り、我々は論理的必然に従って、本来ならば忌まわしい経験である筈の「苦痛」を絶えず蒐集し続けなければならないのである。

ゴルギアス (岩波文庫)

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