サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「ゴルギアス」に関する覚書 2

 引き続き、プラトンの対話篇『ゴルギアス』(岩波文庫)に就いて書く。

 欲望は、苦痛と快楽の綜合によって構成されている。欲望が、その充足の過程において快楽の感覚を経験する為には、前提として苦痛の感覚の介在が要請される。何らかの欠乏が事前に生じていなければ、それを充足する過程で発現する快楽を味わうことは出来ない。従って欲望は逆説的に、不快な欠乏の状態を必ず要求せざるを得ないのである。そして欲望における快楽は、満たされると同時に消滅してしまう。快楽は飽く迄も充足の過程において現前する感覚であり、充足が完了すれば直ちに雲散霧消する。それゆえ、快楽に固執する者は、充足の状態に長く留まり続けることが出来ない。享楽主義者(hedonist)にとって充足は、堪え難い「倦怠」の生じる最大の要因である。

 持続する充足は、ヘドニストの裡に凪のような「倦怠」を生み出す。劇しい快苦の往還に慣れ親しんで感覚の鈍磨した人間にとって、こうした倦怠は殆ど「無感覚」と同義である。ヘドニストは充足に伴う倦怠の単調な虚無に堪えかねて、自ら充足の破壊へ赴き、苦痛と欠乏の泥濘へ投身する。一見すると何一つ不自由のない幸福な境遇の裡に暮らしているように思われる人間が、突如として世人を驚かせるような破滅的所業へ踏み切ることがあるのは恐らく、倦怠を破壊したいという野心に駆り立てられた結果である。彼らにとって最も重要な価値は、欲望の充足そのものではなく、況してや欲望の解消ではない。彼らは強烈な快楽を堪能する為に、態々好んで新たな欠如と欲望を作り出すのである。そして欲望は周期的な運動として無限に反復され、ヘドニストが完璧な幸福の裡に安住する日は永久に訪れない。

 観点を転換すれば、幸福という名の自足した境涯は「倦怠を愛する」という理念の下に涵養されるものであると考えられる。倦怠の裡に自足する訓練を積まない限り、人間が幸福な境涯へ到達することは有り得ない。幸福は次々と増殖する欲望の無際限な充足によって齎されるのではなく、欲望という周期的な運動の発生を可能な限り抑制することによって漸進的に培われる。欲望の減少に比例して、幸福という自足的状態は強まる。欲望は欠如を補填する為の材料を絶えず自己の外部に求めるが、幸福は既存の状態を受容し、肯定する働きであって、決して外界の条件に規定されるものではない。

 ソクラテス的な倫理学は、ヘドニズムの克服という課題を最も根本的な要諦として定義しているように見える。或いは、態々「ソクラテス」の名を冠せずとも、あらゆる倫理学は必然的にヘドニズムの克服を要求すると考えた方が適切な解釈かも知れない。ヘドニズムに対する肯定と容認は、人間を動物的な本能の奴隷に頽落させる。欲望の充足において、快楽は本来「手段」に過ぎない。欲望を充足へ導く為の媒介として快楽は機能するのであり、ヘドニストのように快楽そのものを実存の目的に据える態度は、感覚的な世界への怠惰な蟄居と同義である。現前する感覚への全面的な服従、これが動物的な原理であることは論を俟たない。

 快楽を目的に据えること、快楽を手段として定義せず、至高の理念として推戴すること、こうした享楽的な振舞いは、ソクラテスにとっては「悪徳」の範疇に属する実存の様態である。生命体の内部に太古の昔から営々と継承されてきたプリミティブな摂理は、快楽への飽くなき執着と滞留を目的とするものではなく、生命体の存続と更なる発展を実現することに至上の価値を置いている。快楽は、その摂理を実現する為に案出された感覚的な装置の喚起する感性的現象の一部に過ぎない。にも拘らず、ヘドニストは生命体に備わっている本来的な目的の追求を蔑ろにし、生命体の存続に資するべき便宜的な手段としての快楽を活動の目的の位置に引き上げ、剰え快楽を反復的に堪能する為に態々好んで欠乏の苦痛を形成すべく努める。より善い生存の様態を作り出す為に、理性的な統制を実践し、成長の原理に基づいて自己の実存を調整する意識的な努力は、ヘドニズムの頽落した原理によって無数に分断され、刹那的な快楽の追求が、人生における俯瞰的で綜合的な計画の策定と実現を妨害する。

 ヘドニズムとの対決、これはソクラテスに限らず、地理的にも歴史的にも、極めて広範な領域において真摯な模索の対象とされてきた重要な実存的課題である。ヘドニズムの要請に呑み込まれ、快楽への憧憬に依存して刹那的で離散的な活動に耽溺することを、例えば古代ローマにおけるストア学派の主要な賢者の一人であるセネカは「忙殺」と呼んで批難した。単発的な欲望的周期に支配され、遽しく走り回る「愚者」の生活に関してセネカは、彼らが「人生」という有限の時間を無限に存在するものと勝手に看做し、無意味に「蕩尽」していると考えた。欲望的周期に振り回されている限り、それは嵐に呑まれて航行の能力を喪失した船舶が、荒れ狂う波濤に主導権を奪われて、くるくると同じ海域を無限に彷徨するのと変わらない状態であると定義される。欲望的周期への依存は、他律的な生存の様式を齎し、主体的な航行の能力を剥奪する。動物においては、欲望的周期への依存はそのまま生存の原理への従属に直結している。彼らは生存の維持と生殖の実現さえ達成されれば、それ以上の成果を望まない。同様にヘドニストも、夥しい快楽を堪能することさえ出来れば、それ以上の価値の実現を、一回限りの自己の人生に対して期待しないのである。

 ソクラテスが弁論術を批判するのは、弁論の技術そのものの価値を認めないからではなく、当時のギリシアで弁論術が専ら「迎合」(kolakeía)の技術として洗練され、猛威を揮っていた事実に基づいている。ソクラテス的な意味での「迎合」という概念は、他者の快楽に対する奉仕を意味している。彼は当時のソフィストたちが、磨き抜かれた言論の技巧を倫理的な目的の為に行使するのではなく、聴衆の歓心を買い、彼らの耳に心地の良い言説を流し込んで、人々を享楽的な原理の裡に退行させる為に用いていることを「悪徳」と定義した。その意味では、ソクラテスの弁論術に対する批判は「ポピュリズム」(populism)に対する最も古典的で根源的な批判であると言える。多数決の原理に基づくデモクラシーの政体は、このような「迎合」の悪徳に対して極めて強固な親和性を有している。民主政の頽落は常に「迎合」の悪徳に由来するのである。

 ソフィストたちの卓越した弁論の技術は、ヘドニズムの原理に屈服している。ソクラテスはそうした批判的視座に立脚し、大衆への迎合を糾弾した。だが、こうした批判を繰り返すだけでは、ヘドニズムの強靭な威力を扼殺することは出来ない。「善」の正体に関する議論が充分に成熟している訳ではないからだ。プリミティブな動物的原理としてのヘドニズムを超克することは、人間の精神を古びた拘束から解き放ち、本来的な意味での「自由」を下賜する。換言すれば、本能的なヘドニズムからの解放を要求する格闘は、機械的決定論に対する格闘の転写された形態なのである。「享楽」は人間に内在する本能だが、そのような本能を自らの意志で超越する可能性を保持している点こそ、人間という動物が、その他の動物に対して備えている革命的な優越性の根拠なのだ。通俗的な誤解においては、自由とは「自分の欲望を意のままに満たし得ること」であると解釈されるが、それは原始的なヘドニズムに対する屈服と隷属であり、従ってそれは運命的な決定論の支配を免かれるものではない。本能に屈しないこと、内在的な必然性を逸脱し得ること、これが人間という種族に固有の実存的な奇蹟なのである。

ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)