サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「ゴルギアス」に関する覚書 1

 プラトンの対話篇『ゴルギアス』(岩波文庫)に就いて、感想の断片を認めておく。

 様々な話柄を取り扱って絶えず流動的に舳先の方角を転変させ続けることは、この「ゴルギアス」に限らず、プラトンの書き遺した数多の対話篇の総体に共通する原理的な特徴であると言えるかも知れない。作中で演じられる哲学的な論争或いは対話の劇は、往々にして明瞭で確固たる結論には到達せず、登場する論者の間で包括的な合意が形成されることはない。

 少なくとも現在私が読み終えた、プラトンの経歴においては初期の部類に属すると看做されている幾つかの対話篇は、何れもソクラテスが主役の座を占め、対話する相手の発言に関して、その曖昧で不透明な部分を徹底的に吟味し、論理的に蒸留していくという段取りを共通して備えている。こうした考究の様態と、必ずしも明瞭な結論に到達することを重視しない作品の形式は、プラトンの構想した「愛智」の活動の性質を雄弁に物語っていると言える。

 「メノン」に関する記事の中で、私は哲学的探究の営為を「絶えざる再審請求」と呼んだ。我々の認識において既に自明であると判定されている事柄に就いて、その傲然たる正当性の外貌を猜疑し、曖昧に澱んでいる不透明な個所を焙り出し、論理的な矛盾を発見してそれを是正すること、その絶えざる反復が、所謂「哲学」の活動の内実である。従って、哲学の最終的な企図を要約するならば、それは一切の「判決」の停止であり、審理の無際限な継続であると定義すべきである。哲学的活動は、絶対的な不動の真理を声高に誇示し、その真理に対する敬虔な従属を人々に向かって要求するものではない。寧ろ哲学的活動は、宗教的な信仰に限らず、種々の共同体が掲げる道徳的な規範や、伝統的に継承されている因習など、およそ真理と目される総ての堅牢な認識に就いて、無限の疑問符を附加することを目的としている。

 既成の価値観を疑い、新たな視野を切り拓くことは、少なくとも一般論としては、現代の社会において尊重され、肯定されている行為である。しかし、実際にそうした行為へ踏み切ることは、数多の障碍や迫害に身を挺することと同義であるのが実情だ。現に正当であると看做されている固定した社会的真理に関して批判的な意見を提示する行為は、その意見が社会における多数派の信奉する基準に抵触するものである限り、冷遇されるのが通例である。

 社会が種々の分断によって引き裂かれ、複数の有力者と派閥が割拠し、国家の全体を統合する普遍的な価値や理念が不在であるような環境においては、哲学的活動の主体は、特定の権威によって法外な庇護を授かる可能性を保持する。しかし、社会や国家が特定の画一的な価値観によって支配され、人々の思考や感情の様態が均一な性質を備えている場合には、哲学的主体の存在は極めて凄絶な弾圧や悪意の標的に据えられ易い。また、仮に哲学的主体が特定の有力者や派閥によって歓待されたとしても、哲学的活動の本義に正しく殉ずる限り、そうした温情への継続的な安住は困難な途となるだろう。それゆえに、或る哲学者の活動や思想が、人類の普遍的な資産の目録に記されるまでには、厖大な日月の経過を要することが常態化するのである。ソクラテスの刑死は、哲学の社会的性質に関する象徴的な要約なのだ。

 如何に温柔な態度を装うとしても、哲学的探究は多かれ少なかれ、対話する相手の感情を害し、その矜持を毀損する有毒な成分を含有せずにはいられない。例えば、ソクラテスは、有能な弁論家として高い声価を誇っていたゴルギアスを、執拗な論理的「吟味」の過程を通じて自家撞着に陥らせ、そのことによってゴルギアスの信奉する理念の脆弱な性質を剔抉してみせる。それは決してゴルギアスという個人への攻撃的な敵意の所産ではないが、少なくともソクラテス(或いはソクラテスの名を借りたプラトン)が当時の社会で隆盛を極めていた「弁論術」という技巧に関して、その権威の正当性を疑い、厳密な「再審」の必要を感じていたことは、概ね確かな事実であろうと思われる。既存の価値を猜疑すること、広く公認された真理の正当性に関する判決に対して差し戻しを命じること、これらの活動が哲学的探究の核心を成す行為であることは、既に明らかである。

 だが、ソクラテスは一体「弁論術」の如何なる特性に関して、再審請求の必要を認めたのだろうか? 当時、弁論術は社会的に有益な価値を持ち、数多の大衆を支配し、嚮導する優れた力の源として重んじられていた。ソクラテスが懐いた個人的な「異和」の感覚は、弁論術に対して与えられた社会の側からの過分な崇敬への懐疑を醸成した。彼が批判したのは、弁論術が精確な真実の探究に最大の価値を据えるのではなく、蒙昧な大衆のみならず、社会の中枢に鎮座する有能な権力者たちも含めて、彼らの歓心を買うことを最も重要な理想として掲げている点である。ソクラテスにとって、真実を探究することこそ、哲学的活動の重んじる至善の価値であることを考慮すれば、他者の歓心を買う為ならば真実を歪曲することさえ辞さない弁論術の「美徳」は、明らかに哲学における「悪徳」の範疇に計上されるべき不正な営為である。

 弁論術の威光に対する批判的視座は、換言すれば「善」と「快楽」との単純な混同に対する批判的視座である。何を以て「善」と看做すべきかという議論は、一旦着手すれば無際限に膨張していく難解な主題であり、ここでは差し当たり留保の対象としておこう。ソクラテスは「快楽」に関して、それが必ずしも「苦痛」の対義語ではないことに注意を促す。彼の考えでは、「快楽」とは「苦痛」が解消される過程に顕れる感覚的現象であり、従って「苦痛」の存在しない場所には「快楽」もまた存在しない。換言すれば、「快楽」と「苦痛」とは相互に同時的に顕現し、一体的に営まれる現象なのである。従って欲望の充足を人生の目的に据えるという判断は、必然的に快楽のみならず苦痛の現前を要求することとなる。享楽的な主体にとって、苦痛の不在は快楽の経験を意味しない。苦痛が存在しない限り、苦痛の解消としての快楽を堪能することは出来ないからである。

 欲望は、常に欠如の解消として活動する機構である。従って、欲望の絶えざる充足を維持する為には、人間は自ら積極的に欠如を産出し続けねばならない。欠如の解消を通じて快楽を汲み出す為には、絶えず自らの裡に欠如の感覚を堅持せねばならない。欲望が無限の性質を有するのは、欠如の解消における快楽の経験が常に刹那的な現象であるからだ。刹那的な充足を持続する為に、人間は欲望の過程を無限に反復する。

 所謂「快楽原則」は、人間の生体的な欠乏を充足へ導く為の報酬及び懲罰の役割を担った感覚的な信号である。しかも、それは人類の発祥以来、長らく受け継がれ続けてきた最も原始的で動物的な原理である。極めて端的な表現を用いるならば「本能」とでも称すべき肉体的な原則である。そして理性の発達は、人間を本能に隷属する依存的な動物から、外界の状況に応じて多様な行動の選択肢を持ち得る柔軟な存在へ進化させる役割を担った。つまり、人間は理性や意志の力を駆使して、肉体の深層に装填された最も原始的な本能の発する命令から逸脱する権能を獲得した点で、極めて飛躍的な革命性を帯びているのである。その発達の過程は恐らく、快楽原則を基本的な規矩として用いながら、記憶や想定といった理性に備わっている諸々の機能の恩恵に依拠して快楽原則を調整することで、更なる快楽の最大化と、苦痛の極限的な減殺を図るという順序で漸進的に実現されたのであろうと考えられる。最も原始的な段階における快楽原則の働きは恐らく「時間」という理念を欠いており、その快苦の判断は絶えず現在の「刹那」の裡に幽閉され、長期的な時間の枠組みの中で快苦の最適化を図るという戦略的な振舞いとは無縁である。眼前に生じる「欠乏」の感覚的信号としての「苦痛」を回避する為に、本能の命令に従って、動物は「快楽」を獲得する為の行動に踏み切る。その結果として「苦痛」が解消されたならば、動物的な意味での欲求は充足に達して消滅する。こうした単発的な周期が離散的に連続する状態、つまり個々の「欲望」の周期が常に断絶している状態、これを原始的な「本能」に支配された状態と看做すべきである。

 「記憶」の発達、情報を「綜合」する能力の発達、そうした成果から析出される「想定」の能力の発達、これらの理性的発達の過程が「時間」という認識の構図を作り出し、それまで離散的な仕方で相互に断絶していた「欲望的周期」を俯瞰的な視野の下に編成し、論理的な結合を与えることで、人間は原始的な本能としての「快楽原則」から逸脱する能力を手に入れた。現在の刹那的な快苦の経験に依拠する生存の方式を革め、理性の指示に基づいて多様な行動を選択する力を行使するように変貌したのである。そのとき人間の本能的な「生存」は、理性的な「実存」の次元へ移行し、日々の行動に関する判断の基準は、感覚的な経験としての快苦から善悪や利害といった抽象的な理念へ置換されることとなる。快楽を節制したり、敢えて苦痛を引き受けたりする人間の「思慮」は、このような「生」に関する規範の転換によって形成されるのである。そしてソクラテスの提唱する倫理学的な知見においては、こうした「生存」から「実存」への決定的な転換が、最も本質的な「幸福」を建設する為の不可欠の契機として尊重されるのであり、大衆への迎合や阿諛追従を旨とする表層的な弁論術への批判は、このような倫理的転換に対する無智への批判を自らの根底に据えているのである。

ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)