サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「享楽主義」に関する概念の整理

 人間は誰しも「快楽」を求めます。無論、この「快楽」という言葉には極めて多義的な射程が備わっており、例えば「白いご飯が美味しい」という素朴な感覚的快楽から「憧れの美女を抱くことが出来た」とか「勤め先の権力闘争に打ち勝って絶頂に昇り詰めた」といった、どちらかと言えば単なる感覚的快楽を逸脱して社会的な「承認」の過程を含むようになった「快楽」もあります。

 「享楽主義」を英語で「ヘドニズム」(hedonism)と呼びますが、ヘドニズムはそうした種々の快楽に達することを何よりも重視する生き方に冠せられた名称です。そして「ヘドニズム」という用語には伝統的に、余り肯定的な含意は添えられていません。それは様々な理性的な「美徳」の規範から外れて、純一に「快苦」の周期的な律動の裡に閉じ籠もるような生き方であると批判的に定義されることが多いのです。

 ソクラテス(厳密にはプラトンの対話篇の中に顕れた「師父」としての「ソクラテス」)は、快苦と善悪を同一視する享楽的な考え方を批判します。その批判の過程において、彼は「快楽」と「苦痛」とが相互に同時的な現象であることを論拠として持ち出します。快楽とは苦痛の対義語ではなく、欠乏としての「苦痛」が感覚的な充足へ向かう過程で顕現する刹那的な現象です。換言すれば、充足された状態においては「快楽」のみが存在するのではなく、快苦の何れも同時的に消滅するのです。

 ヘドニズムの原理を信奉する限り、人は快楽を味わう為に自ら「充足」の状態を打ち砕き、欠乏=苦痛の状態を形成することに夥しい労力を費やすことになります。そして束の間の快楽を経験する為に充足の境地への到達を図り、やがて満たされれば再び苦痛の渦中へ自ら回帰していきます。こうした無限の「輪廻」は、ヘドニズムの原理に絶えず随伴する不可避の構造です。快楽を得る為には苦痛が存在せねばならず、従って快楽原則に基づいた生き方は、快苦の目紛しく絶え間ない交替の過程として定義されます。

 このようなヘドニズムの齎す頽廃を免かれる為に、一般に持ち出されるのは「美徳」或いは「善」の理念です。けれども、如何なる営為や要素を「善」と看做すべきか、という議論に就いて、普遍的な答えを与えることは極めて困難です。快苦の目紛しい交替に溺れることが様々な弊害を生み出すのだとしても、快苦を超越する揺るぎない原則を、普遍的な仕方で提出することには、様々な異論が付き纏うことは必至であるからです。

 「善」の概念は、単純な快楽原則の目標に還元されることが出来ないものです。若しもそれが快楽原則の目指す標的に還元され得るのならば、それは「善」ではなく「快」に過ぎないからです。従って我々は「善」の定義を「快」の観念から切り離して捉えなければなりません。

 けれども一方で「善」の概念の根底に、原初から持続する動物的な快苦の感覚が存在していることも、恐らく事実なのです。重要なのは、そのような「快苦」の感覚の構造を理解することです。言い換えれば、何を以て「快」と看做し、何を以て「苦」と看做すか、という「分布」の構造を把握することによって、我々は「快苦」という感覚の裡に秘められた目的を理解しなければならないのです。

 快楽は、動物を或る行為や事物に向かって結び付けます。例えば食事、排泄、生殖、睡眠といった生理的な欲求は、快楽によって人を誘惑しますが、それは人間の生命において、これらの行為が必要な役割を担っている為であろうと考えられます。端的に言ってこれらの生理的欲求は、生命の個体的存続及び類的存続(生殖が類的存続を直接的に意味していることは明らかです)に資するものであり、従って快楽への従属は、生命の目的に適っていると看做すことが出来ます。換言すれば、快楽とは人間の生命体としての目標に対する「手段」の位置に置かれているのです。

 高度に発達した知性は、単純な快楽原則への従属が、場合によっては生命体の目標に反する効果を齎すことを認識しています。同時に人間の知性は、人間を単純な快楽原則の「本能」から乖離させる働きを担っています。こうした人間的「変貌」或いは「革命」は、人間を動物から区別し、その行動の可能性を飛躍的に拡張し、生命体としての更なる発達を爆発的に促進します。けれども、そうした知性が必ずしも生命体の原理に適応した行動へ人間を嚮導するとは限らないのが実情です。例えばヘドニズムは、そうした生命体の原理に対する従属的な手段としての「快楽」に、過剰な価値を認めます。快楽が便宜的な手段であることを閑却し、或る快楽が如何なる価値の形成に寄与するかという問題を考慮せず、彼らは只管に恣意的な欲望の指示に基づいて、快楽の無際限な反復を望みます。そのとき、彼らは「時間の停止」を望むでしょう。快楽は、その本性において瞬間的な経験であり、無限に持続することの不可能な経験です。それを無理に永続させようと願うヘドニストの心理は、知性的な退嬰に直結します。何故なら、知性的機能の革命的発達の契機は、意識の「時間化」によって喚起され、形成されているからです。快楽への依存は、時間の停止を要求し、それは知性的な「善」の概念を毀損する結果を齎します。換言すれば、恐らく「善」という概念は、知性的機能の高度な発達と緊密に結び付いているのです。意識の時間化は、認識の及び得る範囲を拡張する為の新たな機構です。時間化は、認識に附加された画期的な新機能なのです。快楽への依存は、動物的な快楽原則の不完全な模写であり、彼らは高度な知性の働きを否認し、現実への参入を拒絶する為に、無時間的な快楽の閉域に向かって遁走を試みるのです。