サラダ坊主日記

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転生の思想 三島由紀夫「奔馬」 1

 三島由紀夫の畢生の大作「豊饒の海」の第二巻に当たる『奔馬』(新潮文庫)の繙読に着手したので、感想の断片を書き散らしておきたいと思う。

 三島由紀夫という作家の精神に内在する特異な価値観の形式を、仮に一言で要約するならば「生きることは堕落することである」という命題に置換されるのではないかと思う。三島の価値観においては、若さは常に美徳として、老衰は常に悪徳として位置付けられ、生きることは美徳から悪徳への不可避的な没落、或いは無惨な退嬰として定義される。齢を重ねて、いわば生物学的な自然過程の法則に引き摺られ、強制的に導かれるように衰弱していくことは、三島の審美的な哲学にとっては忌まわしい惨禍に他ならない。美しいものが時間の法則に蝕まれ、刻々と摩耗して惨めな姿に様変わりしていく過程こそ、三島にとっては「生きること」の本質的な実相であったのだ。そして、美しいものの永遠性を何よりも尊重し、その実現を劇しく希求する三島にとって、あらゆる生命体に内在する「時間」という不可逆的な呪いは、不倶戴天の宿敵であったに違いない。「時間」に抵抗し、その残酷な毒素の襲来を免かれる為には、美しく華々しい夭折を遂げる以外に如何なる途も存在しない。彼にとって「夭折」は紛れもない「恩寵」であり「救済」であった。時間の流れを停止させること、換言すれば「時間の廃絶」を成し遂げること、それこそが三島的な欲望の目指す究極的な到達地点なのである。

 若しも「時間の廃絶」が、三島にとって至高の目標であり超越的な理念であるならば、仏教の説く「輪廻転生」の観念は唾棄すべき醜悪な幻想的言説として、彼の眼に映じたのではないかと思われる。「転生」の科学的な妥当性は差し当たり除外して考えるとして、仮に「転生」の事実性を認めるならば、美しい死を通じて時間の廃絶を企図する試みは無条件に失敗せざるを得ない。三島的な「永遠性」の観念が「時間の廃絶」を意味しているのに対して、仏教的な「輪廻転生」の観念は「時間という形式の永遠性」を声高に宣告するものであるからだ。三島が自らの代表作である「金閣寺」の中で用いた「仏教的な時間」という言葉は、生死という絶対的な境界線さえも曖昧に溶解させてしまう「輪廻」という観念の悪魔的な性格を指し示している。「仏教的な時間」にとって「死」は聊かも断絶ではなく、従って「死」は「時間の廃絶」を齎す権利を根本的に剥奪されているのである。

 「死」によって時間の無際限な推移を断ち切り、腐蝕と頽落の危険を排除して、美を永遠的なものとして結晶させようと試みる三島的な論理にとって、こうした「輪廻転生」の思想は明らかに敵対すべき忌まわしい観念の体系である。「死」が断絶を意味しないのならば、如何に果敢な手段を駆使したとしても、我々の存在を囲繞する「時間」の果てしない流露を遮り、或る絶対的な刹那を不朽の状態へ留めておくことは不可能であるという結論が導き出されてしまう。「時間の廃絶」としての「永遠」の代わりに「時間」そのものの永遠性を信奉する仏教的な価値観は、三島的な美学の成立を根源的な仕方で阻止するのである。

 しかし、仏教的な観念が「輪廻転生」の不可避的な性格だけを強調し、人間を生老病死の苦諦の渦中へ永遠に幽閉する為の思想ではないことにも、我々は注意を払わねばならないだろう。何故なら、仏教は「輪廻転生」からの解放としての「解脱」という理想的な観念を苦諦と共に保有しているからである。換言すれば、無限に反復される転生の宿命からの脱却は、仏教的な価値観の下でも絶対的な「救済」としての性質を孕んでいるのである。

 解脱という観念は非常に多義的な代物で、その含意の及ぶ範囲は極めて広範であるから、本稿の記述が粗雑なものになることは避け難い。そうした筆者の未熟を踏まえた上で敢えて性急に図式的な議論を試みるならば、解脱とは「輪廻転生」という無限の時間性からの脱却を、つまり絶対的な「断絶」の境涯への到達を意味する観念であると考えることが出来る。「輪廻転生」という仏教的な観念が「時間の永遠性」を指し示すものであることは論を俟たない。そして「解脱」という観念は「輪廻転生」の思想が暗黙裡に前提している「時間の永遠性」を廃絶する権限を有している。そのとき、三島的な論理と仏教的な「解脱」の論理との間には、奇蹟的な「利害の合致」が生じるのである。

 だが、三島の主要な関心が、仏教的な救済の裡に置かれていたと断じるのは聊か早計であろう。「輪廻転生」という気宇壮大な思想の有する意義は、それが我々の人生の「時間」と如何なる関係性、如何なる構図によって結ばれるかという点において様々に左右される。我々が何度でも生まれ変わり、何度でも「若さ」という美徳の段階へ回帰することが可能であるならば、殊更に「夭折の幻想」を重んじて性急な死を祝福する必要性は自ずと失われることになるだろう。それは或る意味では「時間の廃絶」という三島的論理の要請に適合する現象であると言える。

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)