サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

複数形の「私」の共存共栄

 昨日の自分と今日の自分は別人である。今日の自分と明日の自分もまた別人である。私たちはそれらを首尾一貫した同一の存在として認識している。そのように考えなければ、私たちの世界観は成り立たない。

 或いは、私たちは自分を或る明確な一個の存在であると思い込んでいる。こういう人間であるという定義を持っている。だが、その定義は日常的に崩れ落ち、日常的に錯乱している。人間は自分でも信じられないような行動に踏み切ってしまうことがある。それまで信じていた「自分」の定義とは全く相容れない、奇矯とさえ感じられる言動に傾斜することがある。私たちはそれを突発的で異常な現象だと判断したがる。そのように位置付けない限り、それまで信奉してきた「自分」の秩序が瓦解してしまうからだ。しかし、それは本当に正しい考え方であろうか? どんなに異常だと思っても、その言行が実際に為されたのであれば、それは紛れもない「自分」の一部である。「自分」を構成する要素の一つである。それを異常な、突発的な故障のように捉えれば、確かに従来の自画像は混乱せず、毀損されない。そうやって頑迷に「自分」の定義を後生大事に守り抜いている限り、人間は変貌と無縁である。新しい「自分」に出逢う心配もない。少なくともその萌芽は、当事者の視野から除外される。

 「私はこういう人間である」という自己定義は、余り頼りにならないのが世上の通例である。少なくとも、そうした自己定義を純粋に客観的な解釈であると看做すのは素朴な対応である。人間の自己定義には、このように見られたいという願望、こういう自分でありたいという希求が入り混じっているものであり、従って厳密な「事実認識」のようなものを期待することは難しい。「私はこういう人間である」という解釈は往々にして恣意的なものであり、客観的な妥当性を欠いている。

 自己定義から食み出すものの存在を認めず、涼しい顔で扼殺することは出来ない。主観的な認識の上で、そうした隠然たる暗殺に踏み切ることは出来ても、殺された者の亡骸が、風に押し流される霞のように消滅することはない。或る不可解な行動、失錯、過誤、それらの事件が如何に従来の「自分」の枠組みから隔たった性質を持っていたとしても、それが実際に起こったことならば、それを「自分」の範疇から除外して考えるのは「改竄」に類する行為であると言わざるを得ない。存在したものを、存在しなかったように取り扱うのは明白に「改竄」の一例である。

 私たちは寧ろ複数形の「自分」の曖昧で緩やかな連合体なのではないかと思う。「自分」という曖昧で緩やかな旗標の下に蝟集した複数の「私たち」として、この「自分」というものは構成されているのではないかと思う。換言すれば、普通に生きているだけでは、私たちは「自分」の全体を理解することなど出来ない。或いは、このように言うべきだろうか。私たちは「自分」の範疇の内部に、夥しい数の「他人」を養っているのだと。自分という存在の中に取り込まれた無数の他者は、偏狭な自己定義の律法から逸脱して、時に私たちを想像もつかない奇矯な言動の渦中へ拉致する。それは本当に異様な悲劇に過ぎないのだろうか? それは悲劇であると答えるとき、その人物は余りにも劇しく「自己」に総てを捧げ過ぎている。内なる他者の蔓延を厭うのは、自分自身の内部に存在する不透明な暗部さえも完璧に統制したいと願う希求の反映であろう。

 自らの力で自らを治めること、つまり「自立=自律」の理念を実現すること、その輝かしい尊厳に就いて、私は幾度も雑然たる思索を巡らしてきた。自らの掲げた目標、倫理、規則に基づいて自己を支配すること、自分で自分を統制すること、それは確かに崇高で美しい「生き方」には違いない。だが、そんな風に総てを鮮やかに切り分けることが可能だろうか? そうした支配が完璧な専制へ近接するほどに、同じ熱量の「失われるもの」が存在する。内なる他者を獄舎へ繋ぐこと、自立のストイシズムは、そのような厳格な治安維持の上に辛うじて成立する理想である。無論、理想は常に、原理的に美しい。けれども、私の心は本当に、そのような精神的「独裁」の美しさを希求しているのだろうか?

 絶えず揺れ動く曖昧な自己を肯定すること、朝令暮改を戒律に定めること、昨日までの自分を信じないこと、明日の自分を予測しないこと、こうした習慣は、危険な刹那主義に属していると一般的に考えられている。だが、或る超越的な理念の下で、様々な「内なる他者」を選別し、厳格に統御するという軍隊式の生き方を、最も崇高な「善性」或いは「美徳」として崇めるのは、偏狭な話ではないか。複数形の「私」を否定し、或る確固たる明瞭な自己へ無理に集約しようと試みる腕尽くのストイシズムに、私は好意を維持することが出来ない。「内なる他者」の殺戮は最終的に、往来を行き交う普通の「他者」への殺意に転化しかねない。自縄自縛の悪弊を振り切って「他者への寛容」という美徳を正しく樹立しない限り、自主独立の崇高なストイシズムは、正義という名の暴力へ横滑りしてしまうだろう。