サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(三島由紀夫・齟齬・仮装・心理)

三島由紀夫の「仮面の告白」(新潮文庫)を先日読み終えたので、今は同じ作者の「愛の渇き」(同上)を繙読している。如何にも三島らしい、皮肉の利いた観念的な措辞が、じわじわと此方の精神に染み込んで来るような、苦い作品である。

 「仮面の告白」は、緊密な構成と凝縮された文章によって形作られた佳品であった。語り手の私が「神輿」の内奥の虚無的な空間に想いを馳せる場面などは、後年の代表作「金閣寺」における究竟頂の描写を連想させる。処女作に、書き手の精神と才能に関する宿命的な構図が織り込まれているという俗説は、少なくとも三島の「仮面の告白」に就いては、見事に当て嵌まっているように感じられる。

 これから三島の遺した文業の果てしない迷宮に手探りで忍び入ろうと企てている段階で、総括めいた言葉を記すのは性急な話だが、「金閣寺」にも「仮面の告白」にも共通して言えることは、作家の「日常生活」に対する明確な嫌悪の感情である。それを三島は「仏教的な時間」という観念的な修辞で表現している。彼にとって、永遠に持続する退屈な反復としての「日常生活」は忌まわしい、一種の「呪い」のようなものであった。その理由の一端は、彼のメンタリティが極めて「演劇的なもの」であったことに存するのではないかと思う。

 作品と作家を余りに堂々と重ね合わせて読み解くのは、必ずしも賢明な振舞いではない。その軽率さを承知の上で、敢えて贅言を弄してみる。三島が「演劇的な存在」として自己の実存を構築していった背景には、彼が「正常性」に対する強烈な執着を有していたという個人史的な事実が関与している。少なくとも「仮面の告白」に綴られた、一人の青年の精神的な「告白」の中身を信頼するならば、その「正常性」に対する執着の主立った動因が「同性愛」にあったことは疑いを容れない。

 だが、同性愛に対する社会的な圧力だけを理由に、彼が「正常性」に対する異様な執着を育んだのだと言い切るのは、余りに浅薄な推論である。重要なことは、彼が自己の存在と一般的な社会との間に絶えず「齟齬」を感じていたという点、そして彼のメンタリティが、そのような「齟齬」を開き直って肯定するのではなく、徹底的に矯正しようと試みるストイシズムに傾斜していたという点に存している。「自分は正常な人間ではない」という自己定義が「正常な人間として振舞うこと」への切迫した衝動と情熱を齎したのである。同性愛そのものに対する社会的な評価や偏見よりも、彼が自分自身の存在を「異常」として定義したことの方が、遙かに重要な意味を持っている。少なくとも、彼の精神的な風景は、そのような厳粛な自覚を出発点に据えているのである。

 彼にとって「演じること」は、人生における原理的な身構えであった。絶えず「正常さ」の規範を参照し、それに基づいて己の欲望さえも改竄してしまう異様なストイシズムは、彼のメンタリティが常に「他者の眼差し」と結び付いていたことの証左である。他者からの評価が、自己の評価を定めるという原理は、多かれ少なかれ人類の普遍的な所有物であろう。だが、彼は恐らく「居直る」という選択肢を好まなかった。それは彼が実際に様々な「演技」を通じて社会的な栄達を勝ち取ってきたタイプの人間であった為ではないかと思われる。

 彼の作品を一読すれば、その過半が意地の悪いほどに犀利な「心理的省察」によって占められていることに直ちに気付かされる。人間の心理や意識の繊細な変容に就いて、彼ほど精確で詳細な認識を、自らの作品の内部に閉じ込め続けた作家は多くない。それは彼が日常的に「他人の眼に映る自分」というものの存在を分析し、呼吸するように「演技」を繰り返していたことの明瞭な反映である。良くも悪くも、彼は一個の秀抜なる心理学者であった。それは彼が常に「演技」の成功を目指さねばならない実存的な動機を抱え込んでいたことの結果である。

 恐らく三島にとって最大の意識的欲望の対象は「正常であると認められること」であった。当然のことながら、何が正常であり、何が異常であるかという判断の尺度は、社会的な合意の上に成立している。従って彼の欲望は常に「他者によって決定される」という特質を有していた。「正常」の判定を得ることが彼の最大の野心であり、その他の欲望は総て、この絶対的な理念の下に蝟集と従属を命じられる。このことが、三島の文業に付き纏う独特のアーティフィシャルな風合いを生み出す要因となっている。彼にとって自然な、内発的な欲望というものは価値を持たない。言い換えれば、外在的な基準とは無関係に享受される「充足」というものは、彼自身によって厳しく蔑視されているのである。

 恐らく、彼は潔癖で頑迷な人物であった。自己の「異常性」の上に胡坐を掻いていることが、生理的に堪え難く感じられる人であった。三島の太宰治に対する嫌悪は有名だが、その背景には恐らく、こうした消息が関わっているのだろう。太宰治のような、己の恥辱や悪行を開き直って肯定してみせる手法は、彼にとって赦し難い「惰弱」であったのだ。太宰は、己の「惰弱」を殊更に誇張してみせる「演者」であった。それは三島の「演技」の方向性とは、真っ向から対立する実存の様式である。

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 
愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)