サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ニヒリズムの多様な範型 三島由紀夫「鏡子の家」 7

 引き続き、三島由紀夫の『鏡子の家』(新潮文庫)に就いて書く。

⑥「他者」の価値観に擬態するニヒリストの肖像

 オカルティズムの深淵から感性的な現実の世界へ帰還した山形夏雄は、自分が陥っていた虚無の荒寥たる領域の消息に就いて語りながら、次のように述べる。

 神秘家と知性の人とが、ここで背中合せになる。知性の人は、ここまで歩いてきて、急に人間界のほうへ振向く。すると彼の目には人間界のすべてが小さな模型のように、解釈しやすい数式のように見える。世界政治の動向も、経済の帰趨も、青年層の不平不満も、芸術の行き詰りも、およそ人間精神の関与するものなら、彼には、簡単な数式のように解けてしまい、あいまいな謎はすこしも残さず、言葉は過度に明晰になる。……しかし神秘家はここで決定的に人間界へ背を向けてしまい、世界の解釈を放棄し、その言葉はすみずみまでおどろな謎に充たされてしまう。(『鏡子の家新潮文庫 P603)

 夏雄の提示した「虚無」に関する人間の側の対応の類型を参照すれば、恐らく杉本清一郎は「知性の人」ということになるだろう。あらゆる人間的な営為を「虚無」の領野から冷厳で乾燥した眼差しを通じて眺め、仔細に観察し、その構造と秩序を明晰に透視すること、それが知性的なニヒリストの実存の基本的な様態である。「虚無」の世界に立脚して人間たちの生活と社会を顧みれば、そこには明確で半ば自動的な構造だけが顕現する。それはニヒリズムが諸々の人間的な価値に視野を妨げられず、その現実的な構造だけに着眼して思索することの結果である。

 三社の合併によってこの早春山川物産が復活してから、清一郎は入社後三年をすごしたNビルの事務室を移って、会社ごと、この伝統ある山川ビルへ引移って来たのであった。古い光輝あるものはのこらず復活していた。彼はこのビルに移って、はじめて入口をくぐったとき、自分自身に言いきかせた綱領の数々を思い出した。そのモットーは今もなお忠実に守られていた。

 一、絶望は実際家を育くむことを銘記せよ。

 一、ヒロイズムと完全に手を切るべきこと。

 一、おのれの軽蔑するものに絶対服従を誓うべきこと。慣習を軽蔑するなら慣習に。輿論を軽蔑するなら輿論に。

 一、月並こそ至高の徳なるべきこと。(『鏡子の家新潮文庫 P54-P55)

 これらの綱領が能動的なニヒリストの行動を規定する重要で明確な規約であることは附言するまでもない。ここには「青の時代」の川崎誠を彷彿とさせる、身も蓋もない乾燥した合理性と現実主義の規範が象嵌されている。彼が自らの綱領の劈頭に掲げている「絶望」が、一切の人間的な価値に対する不信と、その滅亡の確信を意味していることは明白である。換言すれば、彼は一切の人間的な価値に毫も惑わされない滑らかな「絶望」の力を借りることで、人間的な価値に対する最も忠良なる信徒の仮装を確保し、世俗の雑踏へ巧みに紛れ込んでいるのである。人間的価値を少しも信頼しないことが、人間的価値に対する最大限の忠節として顕れるという奇怪な逆説は、能動的なニヒリストたちの行動の最も本質的な規約として機能している。

『俺は結婚するだろう。遠からず結婚するだろう』……いつとしもなく、誰をも愛することなしに、彼はそう思いはじめていた。しらない間に、この言葉は叫びのようになり、やみがたい欲求でもないのに、欲求のようになった。清一郎は慣習を渇望するという社会的習性が、一人の男のなかで、破滅の思想と仲好く同居するのにおどろいた。

 他人と寸分ちがわぬレッテルを体じゅうに貼りつけて、それでもまだ足りずに、彼は「結婚した男」というレッテルを手に入れようとしていた。なるたけ珍奇な切手をではなく、なるたけ流通度のひろい切手を全部手に入れようとしている、風変りな切手蒐集家のようだと自分を思った。いつか鏡の中に、一人の満足した良人の肖像を見出だすだろうと思うと、こんな自分自身の戯画のデッサンを彼は熱心にとり直した。(『鏡子の家新潮文庫 P73-P74)

 世間一般の素朴な通例と風習、つまり相互に愛し合う男女の幸福な結婚という夢想に、清一郎は聊かの敬意も信仰も寄せていない。彼が欲しているのは「結婚した男」という社会的に善良な仮面であり、その具体的な内実、豊饒な内実ではない。彼の情熱は専ら「月並」への擬態に注がれていて、擬態が空虚な成功を収めれば収めるほど、彼の実存の様式は一層堅固な均衡を獲得するのである。そうした彼の奇怪な曲芸のような処世の方法は、彼自身を生々しい人間の通俗的な愛憎から庇護している。彼は泥臭い「真率な感情」の蔓延する世界から一歩退いて、己の精神的な安寧を堅持している。彼の目的は一体何なのか? 彼のニヒリズムは、ニヒリズムからの逆説的な恢復を希って編み出された実存的な戦略なのだろうか?

 オフィスにいるとき、あのように恒久不変の堅固な物質の中にいた清一郎は、こうして街をひとりでゆくとき、まるで薄いきらきらする箔で作られ、ほんの一触で毀れそうな繊細な硝子細工の骨組を持ったあやうい世界の中をゆく心地がした。これこそは彼にとって親しい世界だった。多くのけばけばしい看板やネオンサインは、いつわりの美の法則に対する忠実さを競っていた。一つのネオンが古風な「不夜城」の赤い三字を浮き出させているが、夜は事実その周囲にせまり、字劃のほそい隙間をさえ犯している。清一郎はネオンサインになりたいと思った。そうすれば彼の欺瞞への奉仕は完成されるだろう。一瞬たりとも自分自身の法則のためには生きないという、この無目的なストイシズムは、ネオンサインの身になれば、何でもない日常普通の、自然な習慣にすぎなくなるだろう。(『鏡子の家新潮文庫 P93-P94)

 こうしたストイシズムには「仮面の告白」で作者が示した社会的な秩序に対する適合の欲望、或いはもっと端的に「擬態」への欲望が残響しているように聞こえる。「正常な人間」として擬装することへの欲望、尚且つそうした擬態が「自然な習慣」に見えるほどに堅牢な外殻を獲得することへの欲望、これらの志向性と衝迫は、作家の精神に棲息する頑迷な宿痾のようなものである。だが、それは「正常でありたい」という率直で純潔な欲望とは全く異なっている。彼は正常であることの不可能性に基づいて、寧ろ正常であることの馬鹿馬鹿しさを心の底から痛感した上で、敢えて正常な外観を構築し、その凡庸な仮装を防護服のように身に纏っているのだ。

 大将になりたい! 顕官になりたい! 大発明家になりたい! 大人道主義者になりたい! 大実業家になりたい!……ああ、子供のころのどんな記憶の片隅をさぐってみても、彼はそういうものになりたいと思ったことがなかった。ほかの子供たちのように、車掌や兵隊や消防夫になりたがりもしなかった。誰から見ても世間普通の快活な男の子にすぎなかったが、彼の心は空洞のようで、この世で自分のなりたいと思う姿をすこしでも思い描いてみることがなかった。(『鏡子の家新潮文庫 P94)

 幼時からの根深いニヒリズム、人間的な価値に対する切実で抜き難い無関心、それらの乾燥した冷厳な情緒を赤裸々に押し出して披露すれば、彼は通俗的な社会の渦中で忌まわしい受難と迫害に晒されるだろう。筋金入りのニヒリストが自己の存在を社会的な外圧から防衛する為には、道徳的で通俗的で凡庸な「擬態」の才覚が不可欠である。同時にその擬態の営々たる努力を支える為には、無際限な日常性という観念は深刻な障碍となる。永久的な擬態への努力は、ニヒリストの精神に残虐で堪え難い重圧を科すだろう。予定された破滅と崩壊を信じることによって、ニヒリストは擬態の努力が有限であることを知り、己の精神的な重圧を緩和することが出来る。滅亡が確約されているという認識が、清一郎の内なる虚無と、虚無に基づいた自在な擬態の能力を支える根拠として作用する。こうした処世の方法は、或る意味では清一郎が「虚無」を愛し、その抜き差しならない峻厳な性質を片時も疑っていないことの証明であるとも言える。彼は「虚無」を肯定することで、余人には模倣し難い稀有の闊達な行動力を確保している。彼にとって「虚無」と「破滅」の思想は、彼自身の流暢な実存を構成する重要な礎石なのである。

 清一郎は「虚無」を飼い馴らしているように見える。目的を欠いた暴力的な政治運動(それは遅かれ早かれ「テロリズム」へ発展するだろう)に加盟することを選択した深井峻吉や、高利貸の女との情死に最終的な救済を求めた舟木収と比較しても、清一郎の「虚無」に対する洗練された対処の作法は水際立っている。換言すれば、彼は他の誰よりも強く「破滅」の確実性を信じることによって、結果的に「破滅」への陥落を免かれているのである。それに比べれば、峻吉や収の選択した末路は「虚無」への紛れもない屈服であり、避け難い敗北であったと看做すことが出来る。

 許婚とはふしぎな感情である。清一郎はいろんなやくざな色恋で、所有の予感に慄えたこともあったけれど、それはなお不確定な未来への不安をひそめたもので、こんなに確実な所有の予約をたのしむ気持ではなかった。それはもう確かに彼の手に帰していて、あとは寝室へゆくまでの時間しか残っていない。しかも時間にはなお綽々たる余裕があり、手の中でたわめたり、その重みをたのしんだり、時には忘れていたりすることさえできる時間なのである。彼はこんな類いの時間をかつて持ったことがなかったような気がした。

 しかしこういうことはすべて清一郎の性分に合っていた。彼は不安がきらいだったのである。戦争直後のあの「不安」の時代は、彼の少年期にいやな醜い印象をのこしていた。不安は希望の兄弟で、どちらも思い切り醜い顔をしている、と少年の彼は思った。不安なんぞ決して持つまいと決心した少年は、処刑の朝の死刑囚の心情にあこがれた。絞首台へ上る階段のむこうに確実な死があり、その窓は朝焼けでいっぱいで。(『鏡子の家新潮文庫 P199-P200)

 如何なる種類の「希望」とも「不安」とも縁を切ること、そして「破滅」の確実な到来だけを信じること、こうした清一郎のニヒリズムは、夏雄が語った「知性の人」の特質に相応しい。知性的なニヒリストにとって、確実なのは「破滅」だけに限らない。あらゆる事象が、ニヒリストの眼には絶対的な不動性を備えて映じる。純粋な構造だけが抽出され、解剖学者の冷徹な視線に晒される。換言すれば、確実視された「破滅」という理念によって、あらゆる人間的価値が幻想の弊衣を引き剥がされて、裸形の純然たる構造的現実に還元されてしまう。この瞬間の喜怒哀楽の価値は、確実に到来する「破滅」の絶対的な暴力性の前では、如何なる具体的な役割も持ち得ない。

 清一郎は藤子とたびたび会う毎に、その明るい豊かな顔のむこうに、確実な未来を何の不安もなしに眺めることが、少しもいやではなかった。未来に確実な破滅があり、その前に結婚があるということは、法に叶っていた。不安や誘惑よりも、それは現実の壁をおぼろげに見せ、許嫁の前にいてすら彼をときどき幻想へ運んだ。すべては終末の前のひとときの休止だった。こういう仮構の、決定された時間のなかを歩むたのしみは、清一郎がもし芸術家だったら、とうの昔に知っていたたのしみにちがいない。(『鏡子の家新潮文庫 P200)

 「すべては終末の前のひとときの休止だった」という一文は、清一郎という犀利なニヒリストの選択した実存的様式の本質を簡潔に照らし出している。四囲の世界を、このような「末期の眼」を以て睥睨すること、それが清一郎の身に馴染んだ基本的な作法である。だが、どうして清一郎は「確実な破滅」に対する完璧な信仰を維持し得るのだろうか? 重要なのは、それが既に獲得された認識でも、神秘的な天啓を通じて授けられた宗教的な夢想でもなく、飽く迄も一つの「信仰」であり、あらゆる煩瑣な神学的議論に先立って存在する「公理」(axiom)のようなものであるという点だ。それは生きていく過程で様々な経験を通じて練り上げられた思索の「成果」ではなく、あらゆる思索を成り立たせる根源的な基層である。「確実な破滅」という条件を前提としなければ、そもそも清一郎の生涯は成立しない。清一郎の生涯は「確実な破滅」という公理から半ば自動的に演繹された現象なのである。従って「確実な破滅」への信仰の来歴を探究することは、少なくとも文学的な議論としては有効な営為であるとは言い難い。

 「確実な破滅」を信じるということは、何らかの具体的な行為を通じて「破滅」の到来に働きかけるという意味ではない。寧ろ反対に、彼は「確実な破滅」を信じることで一切の義務や責任を免かれ、運命に対する絶対的な受動性を確保しているのである。彼が俗世間の風習に水のように染み込むことが出来るのも、こうしたニヒリスティックな免罪符の効能を十全に活用しているからである。「確実な破滅」が訪れるならば、殊更に「破滅」の到来を希求したり、促進したりする必要すら生じない。あらゆる行動は任意の選択肢と化し、如何なる大義名分に基づいた積極的な行動も、単なる恣意的な遊戯の同族として扱われることになる。

 刺客とその世界顚覆の幻想。そのふくれ上った使命感。そのヒロイズム。……そういうものは夭折すべきだし、刺客は夭折する筈だ。夭折する理想はみんな醜かった。今では彼はあらゆる種類の革命を蔑んでいた。もし世界の破滅に手を貸すことが必要だとしたら、破滅の確実さはあいまいになり、それは最悪のもの、すなわち不安を醸成するからだ。(『鏡子の家新潮文庫 P201)

 こうした清一郎の考え方は、夭折した兄を「行動の亀鑑」として称讃していた深井峻吉の精神とは対極的な原理を備えている。峻吉はニヒリズムの飢渇を癒やす為に絶えず「行為」を必要としたが、清一郎は「行為」の特権的な価値を毫も認めていない。彼にとって「行為」は、それ自体では如何なる意義も価値も有さない、恣意的な選択肢のカタログに過ぎない。尤も、無価値であるからこそ如何なる「行為」にも没頭することが出来るという奇怪な論理的逆転に、清一郎の生き方の真骨頂が存している事実を忘却してはならない。「行為」に価値を認めないからと言って、清一郎は決して夏雄のように「認識」の審美的な自由へ逼塞しようとは考えないのである。純然たる認識の愉悦に安穏と閉じ籠もって審美的な価値のみを追求する「観賞」の世界は、清一郎の選択した栖ではない。彼はあらゆる価値を軽蔑し、絶えず「確実な破滅」の信仰の裡に暮らすことで、如何なる「素顔」も排除した徹底的な「擬態」の男に化身するのである。

 君にいつも話していた破滅の思想が、社会の裡に、僕を一種の透明人間に変えてしまってから随分久しい。それはその思想の持ち主に何らの責任を強いない思想で、だからこそ僕はその思想と共に透明になってしまえるのだ。社会的地位の向上を目ざす僕の嬉々たる努力には、いつもひどく風変りな自尊心の裏打ちがついていた。それは、このひろい世間に誰一人として、僕のような心境で出世を志している男はないだろうという自尊心だ。人の希望の芽を僕の手が摘んでしまうこと、しかもその希望の無価値を誰よりもよく知っているのは僕であること、こういう自尊心は僕の身を離れたことがない。(『鏡子の家新潮文庫 P383)

 あらゆる人間的価値、あらゆる社会的価値の重要性を蔑視する清一郎の乾燥した合理主義は、彼が如何なる価値も信奉していないという事実にその根拠を有しており、尚且つ彼がそのような乾燥した合理主義を堅持し得るのは、彼が「確実な破滅」という奇態な理念に対する懐疑を自らに向かって厳格に禁じている為である。「確実な破滅」を疑わない、つまり「確実な破滅」を積極的に招来しようと試みる如何なる具体的な行動にも指一本触れぬこと、それが彼の「透明人間」としての万能な超越性を保証する重要で決定的な根拠として作用している。一切の責任を解除され、つまり「責任」という如何にも人間的で社会的な観念に振り回されたり制約されたりする虞のない地点に立脚して、清一郎は「透明人間」としての持ち前を存分に活用し、あらゆる種類の「他人」に擬態することが出来る。換言すれば、彼は「本来の自己」という曖昧な観念に対する信頼を微塵も所有していないのである。

 君は『他人の情念』が好きだし、僕は『他人の希望』が好きだ。どちらも僕たちの犠なのだ。どうして他人への関心が、こうまで僕らにとって重大なのだろう。野蛮人が勇敢な敵手の肉を喰って、その勇気をわがものにしたと信じるように、僕は他人の希望を喰うことで、他人の属性をわがものにしたと信じ込むことができる。ああ、他人こそ、犠であり、かけがえのない実在なのだ。僕は他人が必死にのぞんでいる海外転勤の辞令を手に入れたとき、僕自身が、それを必死にのぞんできた他人になりすましたような喜びを味わった。僕のあらゆる行為の動機はここにあるのだ。実に微妙なペテン……。その上、僕の行住座臥の関心事が、他人の希んでいるようなものを望んでいる人間たることを装うところにあるのは、君も知ってのとおりだ。何もないものをあるように装って、その結果僕の得るものは、別に珍奇なものでも貴重なものでもなく、正に今まで僕が既に『持っている』と装っていたそのものなのだが、しかしこれさえ確実に得たかどうか疑わしい。だから又しても、更に他人の希望が欲しくなり、御承知のように僕は『朴訥で優秀』だから、ますます出世してゆくという寸法だ。(『鏡子の家新潮文庫 P383-P384)

 こうした「他人に擬態すること」への欲望は、作者が自らの出世作である「仮面の告白」においても明瞭に提示していた思想の形態である。自己の内部から湧出する本来的な欲望、半ば本能から自然な仕方で流露し氾濫するプリミティブな衝迫に身を委ねること、それは徹底して「擬態の欲望」に魂を搦め捕られていた三島由紀夫にとっては困難な実存の形式であったのではないかと思われる。彼にとって欲望の焦点は「擬態」にあり、それは知性的な努力と「仮構」への弛まぬ克己的な意志を要求するものであって、無意識的な衝迫に耽溺して押し流されるような生き方の対極に位置する身構えである。そして、そのような意志的努力を根幹に据えた実存の様式を成立させる為には、どうしても自らの存在を「透明人間」に変異させてしまう「破滅の思想」の助力が要るのである。

 僕にはたえず充塡作用が要る。君もそうだ。僕らの心は、いつも破滅を直下に見て、空っぽに掃除されてしまっているから、その時その時の間に合わせのやくざな野心や夢で、何とか充塡して行かねばならない。その間に合せのためには、月並や凡庸というものは、何という尽きせぬ霊感の泉だろう! 『借りものですませる』というのが僕らの簡潔な主義なのだが、借りものはできるだけ劃一的な意匠を持っていなければならない。凝った『借りもの』だの、芸術的な『借りもの』だのに僕らは一顧も与えない。それらは有害だからだ。僕が社会的に優秀なのは、ひとえにこういう衛生学を自ら実行して、何分の一ミリグラムの有害な毒素をさえ身内に残そうとしないからだが、実はこんな無害な衛生的な人間は存在する筈がなく、その存在の秘密こそあの破滅の思想なのだ。(『鏡子の家新潮文庫 P384-P385)

 清一郎が「無害な衛生的な人間」に化身し得るのは、彼が人間の社会に蔓延する諸々の価値を少しも信用せず、それらの最終的な破滅だけを頑迷に信仰しているからである。密かに隠し持った「破滅の思想」の確実性を片時も疑わないことによって、彼の堅牢なニヒリズムは逆説的に社会の要請する諸々の人間的価値との間に幸福な適応の関係を締結する。清一郎は絶えず「充塡作用」を欲しているが、彼は決して大多数の他人のように、絶対的で未来永劫失われることのない頑丈な「充塡作用」を望まない。絶対的で明確な生の根拠或いは目的を望んでしまった瞬間から、彼の秘密裡に抱懐している「破滅の思想」は霧散して、清一郎の「透明人間」としての特殊な超越性の効用は揮発してしまうからである。

 死は常態であり、破滅は必ず来るのだ。朝焼けのように、世界崩壊の兆候は夜あけ毎にどの窓からもはっきりと目に映るのだ。清一郎には、収も峻吉も夏雄も、こういう事態を前にしながら、個人的な破滅に急いだのが気に入らなかった。個人的な「世界崩壊」ももちろん必至である。人々の肉体的な死も、精神的な死も、そのたび毎に世界を硝子のように粉砕する。かれらは似合う着物を選ぶ。……だがそういう彼自身の確信が、清一郎はきらいだった。彼だけは自分の確信にそむいて生きようと思う。彼だけは決して急がず、あせらず、あの預言的な一般的な世界崩壊、制服のように誰にも似合う包括的な世界崩壊へむかって生きようと思っていた。そのためには彼の金科玉条がある。すなわち他人の人生を生きること。(『鏡子の家新潮文庫 P518)

 煎じ詰めれば、この作品に登場する四人の青年たちは皆一様に、蒼白く燃え盛るような「虚無」の猛毒に抗する方途を探し倦ねて、銘々の末路へ向かって突き進んだのである。峻吉は「思考」を排除し「行為」に専念することで、そもそも「虚無」という巨大な索漠たる曠野から顔を背けようとした。収は他者との絶対的な融合を通じて、自己そのものを滅ぼし抹消して、内在的な「虚無」の成立する基礎的な条件そのものを破壊しようと試みた。神秘主義の泥濘へ陥没する危殆に見舞われた夏雄は、持ち前の審美的な芸術家の特権を活かし、人間的な「意味」の代わりに感性的な「色彩」の論理を用いることで「虚無」の破壊的な毒性の中和に成功した。そして清一郎は「確実な破滅」を信じることで「虚無」の毒性を逆用し、あらゆる人間的価値への不信と軽蔑を逆手に取ることで、世俗の論理と「他人の希望」への完璧な適合を堅持しているのだ。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)