サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「性暴力」と「非婚化」の時代

①「性暴力」の排他的原理

 昔に比べて統計的に増えているのかどうか知らないが、最近テレビやネットのニュースを眺めていると、随分と性犯罪に関する報道が頻繁に挙げられているように感じる。セクシャル・ハラスメントに関する社会の認知度は着実に向上しているし、国内外を問わず、性暴力に対する厳罰化の潮流は明瞭に亢進している。そういう世の中の雰囲気の中で、性犯罪に対するジャーナリズムの関心、国家の公安に携わる正義の人々の関心が高まっていることも、性犯罪に関する報道が増大する背景となるだろう。

 幼い娘を抱えていると、そういう性犯罪に関する報道は余計に気懸りなものとなる(無論、性暴力の被害者は女性とは限らず、現に2017年に実施された刑法改正では、女性のみを被害者とする「強姦罪」を廃止して、性別不問の「強制性交等罪」が新たに設けられている)。特に近年、あらゆる悪質な手口、殆ど非人間的とも思える悲惨な性暴力の事例が相次いで世間の上澄みへ出没するようになり、今までは水面下で済崩しに片付けられていた種々の残虐な悲劇も、多くの人々の耳目に触れるようになって、娘が性暴力に巻き込まれるかも知れないという不安を募らせる要素や材料は増殖する一方である。

 昨今の日本社会で発生している様々な潮流を俯瞰的に眺めた上で、それらを互いに結び付けながら、或る一枚の包括的な図面を形作るように考えを進めてみたい。性暴力とは一般に、性的な事柄に関わる「人間関係」の悪意に満ちた犯罪的行為の総称である。つまり、それは人間同士の間で一般的に営まれる性的な合意形成の過程における不適切な事件、或いは事故の産物である。

 例えば昨年、財務省の福田事務次官が女性記者にセクシャル・ハラスメントを行なった廉で更迭されるという事件があった。また、ジャニーズ事務所に所属するヴェテランのタレントである山口達也氏が、職務を介して知り合った未成年の女性を自宅に呼びつけ、性的な接触を強要した嫌疑で書類送検されるという事件も起きた。先程テレビでは、東大病院の医師が電車の中で見知らぬ女子高生をいきなり抱き寄せて躰を触り、被害者の手で駅員に身柄を引き渡されたという報道が流れていた。個々の事例、その詳細な経緯は様々な特性を備えているだろうが、これらの事件に共通して指摘し得るのは「関係性の誤認」であろう。自分と他者との間に如何なる社会的関係が存在しているのか、それを客観的に把握していれば、取材に来た女性のジャーナリストに「手を縛ってもいいか」などと気色の悪い発言を仕掛けたり、酔った勢いで未成年の女性を呼び出して性的接触を強要したり、電車の中で見知らぬ女性をいきなり抱き寄せたりすることの愚かしさと危険性に想到しない筈はない。若しかすると事務次官は、相手の女性記者が件の性的な発言をいわば「冗談」の類として許容してくれると考えていたのかも知れない。山口氏は自分の性的欲望を相手の女子高生が受け容れてくれると考えていたのかも知れない。東大病院の医師が起こした事件は聊か不可解だが、見知らぬ男性にいきなり抱き寄せられることに、女性が如何なる恐怖や不安を覚えるか、それを少しも想像出来ないほどに関係性の認識能力に深刻な障碍を抱えていたのかも知れない。

 こうした問題を論じるに当たって、先ず確認しておかなければならない基礎的な認識は「人間の性慾そのものに善悪は存在しない」という命題である。男女が相互に性的な欲望を懐き、何らかの合意形成の過程を経由して、性的な行為を営むという一連のプロセス自体は、別段倫理的な非難の対象を享けるべき事柄ではない。性欲を懐くこと、性的な行為に及ぶこと自体が非道な罪悪であるならば、人類はとっくの昔に滅亡しているし、総ての既婚者、総ての人の親は軒並み犯罪者として逮捕されねばならない。

 問題は、相互の合意形成の過程を省略した上で行われる総ての性的行為である。社会的な権力を笠に着て行われるハラスメント、暴力や脅迫によって相手の自由を奪った上で行なわれるレイプ、或いは薬品などで相手の意識を物理的に崩壊させた上で実行される性暴力などは、相手の合意を前提とせず、専ら自己の性的欲望を充足することのみに専心しているという点で、許し難い犯罪性を濃密に帯びている。

 東京大学千葉大学慶應大学などで相次いで発覚した、大学生による集団強姦の事件においては、アルコールなどの力を借りて被害者の女性を無抵抗な状態に追い込んだ上で、言い換えれば女性の存在を単なる「物体」へ還元した上で、相手の主体的な判断や意志や自由を破壊した上で、性暴力に及んでいる。こうした事例においては、最早犯罪の主体は、性的行為における合意形成の意義などという御題目を聊かも信じておらず、寧ろ積極的に蹂躙し、冒瀆していると言える。そこでは昔から擦り切れるほど言い古されてきた議論、つまり「愛情と性慾はイコールなのか?」という議論の構図が介入する余地すら残されていない。彼らは性的行為に「愛情」に類する観念が必要であるという認識さえ持ち合わせていない。無論、愛情と性慾は必ずしもイコールではないだろう(「性慾を伴わない愛情」という観念を否定することは、様々な社会的事例を徴する限り困難である)。だが、愛情を伴わないとしても、最低限、相手の嫌がることはしない、といった基礎的な社会的通念に対する服従は必要である。そうした通念さえも平然と踏み躙り、相手の人格に堪え難い損失と傷痍を与えるのは、唾棄すべき犯罪である。

 これらの性暴力の事例を総括して言えるのは、ここに「他者への敬意」という最低限の社会的倫理が絶望的なまでに欠如しているという事実である。自己の性的充足の為ならば、権力や薬品を用いて相手の自由な主体性を毀損しても一向に差し支えない、という邪悪な認識が存在しなければ、これらの野蛮な犯罪は惹起されない。そして、これらの根深い問題は既に、性犯罪に限らず、社会の様々な領域へ堰を切って氾濫し、広がり続けているのである。

 私は異性愛者の男性なので、性的な欲望を懐く相手は常に女性である。私は純然たる性欲の充足のみを理由として、女性と関係を持とうとした経験はないが(尤も、その時々の局面で、相手が私に対して如何なる感情を有していたかは分からない。遡って確かめることも困難である)、性慾であれ愛情であれ、性的な合意形成を構築する為には、相手の思考や感情に対する綿密な観察と本質的な理解を積み重ねることが必須である。一般的に言われる「恋愛」のプロセスとは専ら、こうした合意形成の過程を指すのであり、性交そのものは最終的に辿り着く「関係性の踊り場」のようなものに過ぎない。もっと俗っぽい言い方を使えば、どうやって相手の自由を損ねずに「口説く」ことが出来るか、相手の承認を得る為に如何なる言行を選択すべきか、どうすれば相手の存在の「本質的なコア」に適切な理解力を届かせ、相手の存在を愛によって包摂することが出来るか、相手の欲望は何に向かって捧げられているのかを如何にして把握するか、という諸々の煩雑な手続きの総体が「人を愛する」という不可解で難解な営為の内訳なのである。諸々の性犯罪において、こうした煩雑なプロセスは概ね完全に省略され、黙殺されている。そうした煩雑なプロセスを省略して、性的な欲望の充足のみを達成しようと焦躁に駆られる余り、性犯罪の主体たちは権力や暴力などの一方的な手段を駆使し、結果として被害者の存在を単なる「物体」に還元してしまう。非対称的な関係性を構築することで、合意形成の過程を破壊し、抹消すること、これこそが「性暴力」という犯罪を構成する最も邪悪で本質的な要件なのである。

②「非婚化」の排他的原理

 日本では「少子高齢化」と「未婚率の上昇」が社会的問題として声高に指摘されるようになって久しい(内閣府の統計は、2016年の婚姻件数、婚姻率が共に「過去最低」の数値を記録したことを告げている)。結婚して子供を持つことが、成人の基本的なライフコース(或いは「絶対的な」?)として認知されていた時代は既に過ぎ去り、結婚も出産も個人の自由な裁量に委ねられるべき問題として再定義されている。

 「未婚」という言葉には「未だ結婚していない=いずれ結婚すべきだがしていない」という「不本意」の含意が知らぬ間に滲んでくるように思われるので、本稿では敢えて「非婚」という言葉を使いたい(同時に、この用語は「未婚」のみならず「離婚」も含意している)。

 個人主義の抬頭は、時々共同体主義への不可避的な揺り戻しを伴いながらも、着実に我々の暮らす社会の基本的な潮流として、その存在感と威信を高め続けてきた。女性の社会進出、生産年齢人口の減少といった社会的な趨勢もまた、現時点では押し戻すことの不可能な「宿命」として我々の身辺に圧し掛かり、降り注いでいる。

 女性の社会進出が堅調な伸張を示し、男性に対する経済的依存の構図が薄まってきたことで、結婚の有している社会保障的な性質への需要が衰微しつつあることは事実である(その背景に、男性の経済力そのものの低下という潮流が関与している事実も看過してはならないが)。結婚している世帯に就いても共稼ぎは最早巷間の常識であり、特に子供を持たない家庭では、結婚の社会保障的な性質は限りなく弱体化しているように思われる。

 このように、結婚という制度自体が社会の変化によって従来の意義や価値を動揺させられていることは事実である。しかし、赤の他人同士が極めて親密な相互扶助や協同の関係性を築くということ自体は、婚姻という制度の本質である「生殖=類的再生産」の機能を除外して考えたとしても、決して無益な事柄ではない。門地、性別、子供の有無などの様々な要件に左右されず、他人同士が或る強固な紐帯に基づいて支え合いながら生きるという意味では、結婚という制度の持っている効能は未だ死滅していない。同性婚が認められていなかったり、選択的夫婦別姓の制度が導入されていなかったり、歴史的環境の変容に応じた改訂が不充分であることは事実であるとしても、それが直ちに婚姻という社会的枠組みの絶望的な機能不全を意味することはない。「異性愛=生殖」という基礎的な構図に拘束されない新たな「婚姻」の制度を設計することが急務だとしても、それが旧来の古びた枠組みを問答無用で廃棄すべきであるという極論に帰結する必然性は存在しない。

 それでも、世の中の主要な潮流が「未婚及び離婚」の総計としての「非婚化」を志向していることは、疑いを容れぬ確かな事実であるように思われる。赤の他人と親密な関係を構築する為の煩瑣な努力に対する嫌悪が、現代の日本における普遍的な「トーン」(tone)として浸潤しつつあるからである。

 結婚を「人生の墓場」に譬える言種は、昔から言い古されてきたものである。「結婚をしたら片目を閉じよ」という言葉を遺したイギリスの神学者もいると聞く。大金を投じて華燭の典を盛大に挙行した刹那には、薔薇色の理想郷と思われた結婚生活も、時が経つに連れて夥しい不協和音を伴うようになる。初心を忘れ、相手の魅力に飽き、思い遣りや気遣いを忘れ、寧ろ相手の欠点ばかりが目立つようになる。喧嘩が増え、憎しみが募り、愛情は掠れていく。こうした凡庸な情景を指して「人生の墓場」と称する心情は、理解し難いものではない。

 だが、結婚しなければ「墓場」から逃げられるのか、という重要な問題に、明敏な回答を示せる者は数多くないだろう。確かに結婚しなければ、我々は赤の他人と四六時中一つ屋根の下で起居する苦しみを免かれることが出来る。同居する者の都合に応じて自分の生活の秩序を規制する義務からも解き放たれる。絶えず自己の欲望を優先し、他者の欲望を顧慮せず、手許の経済的な資源を好き放題に独占することが出来る。それは結婚して妻子と暮らす草臥れた男の眼から眺めれば、天国のような話だ。或いは、家事と育児に忙殺されて、録画したドラマや特番を見る僅かな時間さえ捻出出来ずにストレスを溜めている私の妻の眼にも、華やかな極楽浄土として映じるかも知れない。少なくともそこには、純粋無垢なエゴイズムの塊である二歳の娘がいない。どう前向きに考えても、育児とは自己犠牲の営為である。結婚して子供を儲けなければ、最低でも二十年以上に亘って持続すると想定される苛烈な自己犠牲の境涯を回避することが出来る。

 そのような負担も、それが自分の人生を人並みの水準に成り立たせる為の不可欠な選択肢であるならば、黙って忍ぶことも多いだろう。例えば昔は(今でも多少はそうかも知れないが)未婚の人間は半人前と看做されたり、離婚して戸籍が穢れた人間は出世の可能性を閉ざされたりという暗黙裡の不文律が罷り通っていたと聞く。無論、実際に人事部の人間や会社の幹部が配置表を眺めながら「独身の奴は半人前だから重要な職務は与えられないな」などと密談している光景を目の当たりにした経験はないので、或いは単なる都市伝説である可能性も否定出来ない。ただ実際の経験として、私が離婚したとき、当時の上司に一晩居酒屋で話を聞いてもらったのだが、彼は離婚歴がキャリアに響く会社じゃなくて良かったな、これが銀行とかだったら離婚した途端に昇進の途はなくなるからなと言った。そういうものなのかと、新鮮というか、意外な気持で受け止めたことを記憶している。

 結婚しないことが、社会的な不利益に直結するのならば、生き延びる為に不本意な縁談でも受け容れようという発想が支配的になるかも知れないが、未婚者が増え、離婚件数が増大し続ければ、そういう社会的な通念の側に徐々に地殻変動が生じることは避け難い。そうして社会からの同調圧力が弱まれば一層、未婚率は上がり、離婚件数は爆発的に膨張するだろう。

 結婚することの是非を論じても仕方ない。あらゆる世の中の出来事がそうであるように、物事には必ず光と影があり、器用に明るい側面だけを掬い取ることは出来ない。結婚という選択肢が様々な負担を、つまり他者との密接な共同性を構築することの負担を強いることは厳然たる事実である。そうした負担を嫌がって、或いはそうした共同性の構築の努力に失敗して、結婚という選択肢を拒絶したり、迅速な離婚へ踏み切ったりする傾向が強まっており、尚且つそれらの傾向を容認する社会的風土が醸成されつつあることもまた事実ではないかと私は感じる。共同性に対する奉仕、これは夫婦に限らず様々な社会的次元で重要視されている倫理的な規矩であるが、無論、歴史的な潮流は「個人の主体的選択」の尊重という方向へ流れ続けており、従って共同性に対する奉仕の美徳は、徐々に衰弱し没落しつつあると言えるだろう。

 「個人の主体的選択」の尊重という方向性を、その弊害を理由に禁圧すれば、我々は二十世紀に吹き荒れたファシズムの猛威を再び呼び戻し、地獄の扉を開いて復活させることになるだろう。如何なる弊害が生じようとも、個人の自己決定に関する権利を縮減する方針は抑制されねばならない。だが、そうした自己決定の原理が、共同性に対する疎隔を否が応でも招き寄せ、結果として他者との合意形成という最も核心的な社会的能力の劣化を惹起するのだとすれば、我々は自己決定の原理の重要性を御題目のように信じ切って唱えるばかりではいられなくなるだろう。

 非婚化が、結婚に関する私たちの自己決定の権利の所産であるのならば、それ自体は類的な退嬰であるとは言えない。人間は誰でも、自己の意志に反してでも結婚して家庭生活を営まなければならないという厳格な共同体的要請への隷属から、個人が解放されるのは望ましい変革である。だが、自己決定の権利が、他者との社会的関係の構築を劣化させるという現実に留意しない訳にはいかない。我々は日々、刻々と強烈なエゴイストに変貌しつつある。寛容という美徳は打ち捨てられ、譲歩や妥協は軽蔑され、他者への配慮は自己への配慮によって駆逐される。それは自己決定の原理が本来内包していた豊饒で積極的な可能性を扼殺する帰結でしかない。

 性暴力と非婚化との間に直接的な関連を見出し得る根拠は存在しない。だが、これら二つの事象を培養する土壌として「自己決定の原理」に淵源を有する「他者との社会的関係の構築能力の劣化」が関与しているのではないかという仮説を立案することは可能である。性暴力に踏み切る人々は、他者との合意形成の過程を蹂躙した上で、一足飛びに自己の要求だけを貫き通そうと試みる。非婚化の傾向は、そのような犯罪的性向とは全く無関係であるが、他者との合意形成の煩瑣な過程に対する絶望を含んでいる。何れの場合にも、他者との合意形成という重要な社会的過程の弱体化という徴候が隠見している。

 頗る雑駁な言い方を用いるならば、我々は「他人との付き合い方」が日に日に下手糞になっているのである。自分と異質な考え方の人間に対する凄まじい不寛容と誹謗が、インターネットの世界に氾濫していることは既に周知の事実であろう。こうした傾向の極限に、他者という存在そのものを理解出来ず、他者と物体との区別が不可能であるような精神的構造が誕生することは恐らく確実である。薬品を用いて意識を奪った女性を集団で強姦し、剰え面白がってスマートフォンで撮影するなどという鬼畜の所業は、単なるエゴイズムの発露という解釈を超過している。自分と異質な存在を受け容れられないという偏狭なセクショナリズム(sectionalism)の蔓延は、例えば世界的な保守派の抬頭(その筆頭はドナルド・トランプであろう)によっても象徴的に示されている。自分と自分の同胞以外は総て意志も主体性も持たない「物体」に過ぎないと看做すサディスティックな精神の脅威、これが現代の世界を包囲する最も危険な疾病であることを閑却してはならないだろう。