サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(目的の正しさは、手段の正しさを論証しない)

*目的の正しさは、手段の正しさを論証しない。目的が正しければ、如何なる手段も自動的に無謬の正当性を賦与される訳ではない。この場合、我々は「正しさ」という言葉を倫理的な観点から捉えなければならないだろう。英語で言えば「right」と「correct」の差異に該当する。倫理的正義(right)と認識的正義(correct)との弁別は、一見すると些末な議論のように映じるが、我々が地上で生を営んでいく上では、この微妙な色彩の差異を黙殺することは深刻な災厄の淵源となる。

 目的が達成されたとき、達成に向けて駆使された諸々の手段は、その合理的な有効性を認められる。この場合、その有効性に対して「正しい」(correct)という表現を充てることは聊かも不自然ではない。だが、この場合の「正しさ」には倫理的な「善悪」の含意が欠けている。「良くも悪くも、現実はそういうものだ」と我々が半ば苦笑を交えて唇を歪めるとき、我々は現実の絶対的な構造に就いて語っている。実際に、或る現実が或る特定の構造を備えているときに、その構造に就いて精確な知見を持つこと、それが認識的正義(correct)の志向する理想的形態である。

 だが、こうした論述の形式と用語法は、両者の区分に関して曖昧な錯覚を喚起しかねないから、異なる表現に革めるべきかも知れない。つまり、認識の領域において「正義」という理念は存在しないと宣言すべきかも知れない。認識においては、事実を精確に反映することが至高の価値を有している。認識の欲望は「認識の拡大」以外に有り得ない。従って、様々な理由から開示されるべきではないと社会によって定義されている秘められた事柄に就いても、それを認識することが社会的な道徳に反する場合であっても、認識そのものにとっては、そうした探究と開示は称讃されるべき営為なのである。

 従って「目的の正しさは、手段の正しさを論証しない」という命題は、必ずしもあらゆる種類の「正義」に関して普遍的に適合するものではないという結論に至る。そもそも「目的」と「手段」という議論の枠組み自体が、例えば認識の領域においては成立しない。認識において重要な論点は「原因」と「結果」という因果論の精確な事実性に限定されている。「目的」と「手段」という枠組みには、純然たる認識の領域を超過した「行為」の原理が暗黙裡に内在しているのである。

 崇高な目的の為であれば、如何なる非道な手段も容認される。これは世界中で極めて日常的に観察される凡庸なスローガンである。目的の達成の為には、手段の倫理的性質を考慮しないという機制は、認識的正義を「行為」の世界に適用するという越権に基づいて構成されている。目的の倫理的な性格が、手段の反倫理的な性格を免罪するという論理は、そのように堂々と明示されていない場合でも、人知れず巧妙に穿たれた無数の暗渠を潜り抜けて、我々の社会を雁字搦めに拘束している。

 例えば教育の現場における「体罰」の問題、或いは様々な組織における「パワー・ハラスメント」の問題に関する社会的議論の高まりは、こうした「目的による手段の倫理的浄化」という理路の備えている有害な性質に対する輿論の着目から始まっている。崇高な目的を達成する為ならば、犯罪的な手段を駆使することも止むを得ない。こうした認識の倫理的な限界に就いて、我々の社会は安易な寛容を節倹しつつある。

 「正しい道徳」を修得させる為には、暴力的な手段を駆使することも容認されるべきであるという理路は、少なくとも社会の公共的領域においては峻厳な批判の対象となりつつあるが、根絶への道程は未だ遼遠である。その背景には「合意形成」の重要性に対する根強い蔑視が横たわっている。主体的な理解の醸成という過程への苛立たしい断念と絶望が関与している。幾ら対話を重ねても問題の打開が見込めないとき、国家は武力行使を選択して軍事力を発動させる。だが、幾ら対話を重ねても問題の打開(最善の形での解決でなくとも、何らかの妥協的な決着でも構わないのだが)が見込めないという判定は、如何なる根拠に基づいて下されるのか? 往々にしてそれは「時間切れ」である。対話に費やす時間が限界に達したと判断されたとき、人間は強硬な手段による事態の終幕を企図する。体罰が始まるのは、この瞬間である。

 従って原理的に「暴力」は「対話の失敗」と同義である。最善の選択肢でないとしても、何らかの合意に達することが出来れば、暴力が介入する必然性は生じない。けれども、如何なる合意に達することも出来ない「膠着」の状態が長引いた場合、暴力によって事態の強制的な更新を図ることは、人類が有史以来繰り返してきた常套的な作法である。我々は「対話の失敗」を「暴力」によって清算するという野蛮な手法に骨の髄まで蝕まれた生き物なのである。

 だが、対話は継続される限り、合意形成の途上にあり、従って何らかの合意に到達する可能性は原理的に消滅し得ない。それを志半ばで「消滅」と判定するのは、時間的な限界の到来に基づいている。しかし、その時間的限界を判定する基準が常に客観的な根拠を有しているとは限らない。たとえ望み得る限り最悪の「合意」であったとしても、それが「合意」であるならば、我々は時間的限界を理由とせず、極めて正当な権利に基づいて「対話」のプロセスを完了することが出来る。けれども、如何なる「合意」にも達していない状況において、性急に「対話」の時間を打ち切ろうとする判断は、それ自体が既に一つの明確な「暴力」なのである。

 対話の遮断、交通の断絶、これが一切の「暴力」を生み出す根源的な事態である。対話する価値もない相手であるという冷酷な判断が、猛烈な無慈悲と害意を爆発的に増殖させる温床として機能するのだ。従って「暴力」に対する抵抗は、常に「対話」への粘り強い持続的な意志と努力によって支えられることとなる。或いは「対話が不可能である」という判定への禁欲的で忍耐強い拒絶によって維持される。そうした意志は不可避的に、他者の固有性や主体性に対する最大限の敬意を要求するだろう。「対話」は「敬意」を除外した状態では決して成立しない。言い換えれば「暴力」は決して「敬意」との間に親密な関係を築こうとしない。性急で強硬な「決定」に絶えず傾斜しようとする「暴力」の野蛮な性質に抗うことは、善良で強靭な人間性の涵養に向けた、最も有効で誠実な修錬の過程であると私は信じる。