サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(語学的生活)

*引き続き、英語学習に励んでいて、もう直ぐ HARRY POTTER and the Philosopher's Stone を読み終える。未知の単語や言い回しには幾つも出逢うが、文脈に基づいて推測したり、観念して辞書を引いたりしながら、坑道を掘削するように読み進めている。それが意外に苦行ではなく興味深い探究の日々と化しているのは個人的な僥倖である。恐らく、日本語の文章を日常的に読解する習慣を子供の頃から蓄積してきた経験が、洋書の繙読にも一定の有益な貢献を成しているのではないかと思われる。日本人として生まれ、日本語のnative speakerとして生まれ育ったからと言って、誰もが日本語で綴られた文章ならば何でも完璧に意味を把握出来る訳ではない。読書の習慣を持たなければ、自分の生活が及ぶ限られた範囲内で経験する単語や表現にしか理解が行き届かないのは当然の理窟である。母国語であるから、自動的にあらゆる語彙が把握出来るようになる訳ではない。子供の発達の過程を間近に眺めている限りでは、母国語であっても、その運用能力は明確に学習の産物であって、断じて本能の帰結などではない。況してや文字の読み書きは猶更、後天的な技術である。oral communicationの技倆は周囲の人々の振舞いを模倣することを通じて自然と発達する傾向にあるが、literal communicationの習得と強化には意図的な訓練が必須である。それゆえに読書の習慣の累積が、一定の歳月を閲した後に、有意な差を作り出すこととなる。例えば私は「嚆矢」という言葉を小学生の頃、子供向けに読み易く編輯された夏目漱石の「吾輩は猫である」の註釈を通じて学んだ。だが、この「嚆矢」という言葉に、日常の生活の如何なる場面で遭遇し得るだろうか。無論、日常の如何なる局面においても邂逅しない言葉であるならば、わざわざ「嚆矢」という言葉を学ぶには及ばないと、実利的な人々ならば結論するだろう。事実、言葉を単なる道具と捉えるならば、使用頻度の低い単語は箪笥の奥底に眠らせておくのが賢明な選択である。あらゆる単語に通暁せずとも、あらゆる漢字を、その異体字に至るまで暗記せずとも、日常の雑用を片附けることに支障はないし、身近な人間とのコミュニケーションが途絶する虞もない。トイレのことを古い日本語では「厠」や「雪隠」や「後架」と呼んだという知識は無益な雑学に類するもので、少なくとも平均的な社会生活に必須の教養ではない。
 だが、世の中には「言葉」というもの自体に愛着を示す奇特な人々がいて、幼稚園の頃に遊びの一環で国語辞書を読んでいた私も、その末席を穢す一員であろうと思われる。そういう人間にとっては日常の用務に適さない古色蒼然たる死語さえも、熱烈な好奇心の主要な標的である。これだけ動画の通信技術が発達した現代においてさえ、猶もちまちまと活字の羅列に眼を走らせる不健康な習慣を絶やさない類の人間は十中八九、言葉の中毒患者である。彼らは珍しい言い回しや独創的な造語に強く惹き付けられるし、場合によっては古語の蒐集や外国語の習得に血道を上げる。それは、見知らぬ言葉の習得が、彼らの属する世界の範囲を大きく拡張するからである。見聞の及ぶ範囲は固より、思考の深浅なども語彙や文法の知識によって左右される。彼らにとっては多様な「類義語」を学ぶことも大いなる喜悦の源泉である。或る言葉を別の言葉に置き換えることは、単なる代替を意図するものではなく、より精密なニュアンスの提示を可能にする為である。言葉の多様な発達、文法の変遷や語彙の増大(場合によっては異国からの輸入・借用。例えば英語におけるフランス語・ラテン語、日本語における漢語のように)は、概ね言語的表現の精度を高め、絶えず変異し続ける現実への適応を果たす為に行なわれてきた。そして、言葉を偏愛する人々は、既に用済みとなって棄却された単語や言い回しにさえ、何らかの感興を見出すのである。それは効率の観点から眺めれば不毛な振舞いであるかも知れない。確かに私も、自分の生業たる仕事の現場においては、非効率な方法を積極的に唾棄する。けれども、堆肥が耕土を豊かにするように、多様性は非効率であっても、或いは非効率であるがゆえに豊饒であり、世界の解像度を向上させるのである。走査線の数がディスプレイの画質を定めるように。
 古い言葉、異国の言葉、或いは方言や俗語の意味に通暁し、その運用に熟達するということは、翻せば、その言葉の遣い手との間に共通の紐帯を獲得するということである。例えばPlatoの著述の本格的な研究に従事する学徒は、日常の使用に関しては疾っくに廃れてしまった古典ギリシア語の習得に数多の日月を捧げるだろう。そして古典ギリシア語を自在に読解し、達意の文章を認める能力を得た者は、少なくともPlatoと対等の立場で議論を展開する基盤を手に入れたことになるのである。それは驚嘆すべき奇蹟的現実であると言えるのではないだろうか。Ancient Greekという共通の枠組みに基づいて、Platoと共に哲学や政治における普遍的課題を検討出来るというのは、殆どtime-tripにも等しい魔術的な振舞いである。無論、万人がPlatoとの難解で抽象的な議論に私的な情熱を掻き立てられるという訳ではない。恐らくそれは、一部の酔狂なdilettanteだけの関心事に留まるだろう。けれども、これほど奥深い趣味というのは稀少であり、一生を懸けるに値するのではないか。日本語に限っても、例えば夏目漱石森鷗外の文章を読めば、我々は百年前の日本人との間にコミュニケーションの機会を得ることが出来る。古語でも外国語でも何でも構わないから、未知の語学に時間と労力を傾注したい。それが私の本年の抱負である。