Cahier(Falling into Foreign language)
*引き続き、英語学習に明け暮れる日々である。とはいえ、明け暮れるというほど熱心に努力しているとは思わない。地道に洋書を読み、分からない単語や文法を時折スマホで調べるという程度で、御世辞にも効率的とは言い難い。けれど、私は別に一刻も早く英語に堪能になりたいと焦っている訳ではないし、何より継続を重んじて取り組みたいので、自分の情熱や能力を過信してハードなカリキュラムを組み立てる積りは毛頭ない。そもそも、私の最終的な目標は、英語の書籍を自在に読めるようになることであり、仕事の必要に迫られて英語を学ぶ訳でもなければ、海外旅行や留学の予定がある訳でもない。そして、英語の書籍を自在に読めるようになる為の最も実践的な訓練は、実際に洋書を買って自分のペースで読んでみることだろうと結論して、背伸びは承知で来る日も来る日もハリー・ポッターの原書を繙読しているのである。直近では、J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Prisoner of Azkaban,London,2014 を100頁ほど読み進めたところである。
英語を学ぶ目的をもう一つ、強いて挙げるとするならば、娘が将来、学校で英語の勉強を始めて躓いたときに、彼女の分からないところを教えてやれる父親になることである。2020年から、小学校における英語教育が必修化され、三年生以上の児童は皆、英語を学ぶことになっている。娘はもう直ぐ五歳になる保育園児で、彼女が小学校三年生に進級するのは2024年4月の予定である。概ね残り三年間、そして三年間地道に勉強を続ければ、それなりに私の知見も増え、英語の初等教育を支援するぐらいの能力は身に着いているだろう。そして難問に苦しむ娘に優しく然り気なく颯爽とアドヴァイスを授けて、娘の称讃と尊敬を一身に浴びたいという欲望に今から想像上の涎を垂らしているのである。賢く頼もしい父親であると思われたいという旺盛な自己顕示欲を満たす為に、貪欲な準備に着手しているのである。唯一の懸念材料は、齢年中児にして既に父親に対する横柄且つ粗暴な態度を隠そうともしない娘が、私に英語の宿題を総て押し付けて意気揚々と公園へ去ってしまうのではないかという暗鬱な未来予測である。或いは、自分の分からない問題を嬉々としてしたり顔で教えたがる父親の振舞いに堪え難い生理的嫌悪を懐くのではないかというリアリティに満ちた想像である。それならそれで、一つの人生である。私の血を半分受け継いで生まれ育った帰結が、そうした非道な横暴であるならば、父はそれを甘受するより他に途を持たない。つまり、宿業である。
*目的が何であれ、新しい知識を学ぶことには固有の高揚が存在する。小さな発見の蓄積が、更なる学習への意欲を煽動し、堅持するのである。私は今、只管にハリー・ポッターの原書と格闘する日々を過ごしているのだが、頻出する単語とは徐々に顔馴染になりつつある。同じ作者の書いたシリーズであるから、繰り返し愛用される単語というものが存在する。見知らぬ単語に遭遇する都度、辞書を引くよりも、前後の文脈から単語の意味を推し量ることが重要であるという洋書多読の秘訣に倣い、成る可く日本語を介さずに英単語の意味を考えるように心掛けている。
英語であろうと日本語であろうと、単語には所謂「類義語」(synonym)というものがあり、概ね同じ事柄を指し示しているのだが、相互にニュアンスが異なる単語の一群というものが存在する。このニュアンスの多様性や重層性は、言語的表現の豊饒性と解像度を高める役目を担っている。ハリー・ポッターを読みながら感じたことの一つは「叫ぶ」という言葉に関する表現の多様性である。ざっと思いつくままに挙げれば、cry,shout,exclaim,screech,scream,howl,bark,yell,yelp,roar,erupt,growl,bellow,shriek,snarl,squeal,croakなどがある。これらは決して一様に「叫ぶ」という意味ではないが、配置された文脈に応じて、それぞれに固有のニュアンスを伴いながら「大声を出す」という状況の表出に役立っている単語たちである。この類義語同士の関係性や使い分けの目安に通暁することは、外国語の習得においては、かなり重要なファクターではないかと思われる。英単語と日本語との照応関係に関する理解は翻訳において重要な知識となるだろうが、それ以前に先ず英単語同士の関係性を理解しなければ、英語を運用することは不可能である。状況に応じてbarkとroarを使い分けることが出来なければ、英語における表現力は著しく低減してしまうだろう。
また、直訳すると自然な日本語に置換し得ない表現というのも、その外国語の特性を理解する上では重要な手懸りとなるだろう。例えばget to one's feet(立ち上がる)やmake one's way(前進する)といった表現は、ハリー・ポッターの原書にも頻出するカジュアルな用語法であるが、日本語に染まった人間からすると、聊か迂遠な言い回しに聞こえる(私だけの感覚かも知れないが)。或いは、少なくとも私にとって難解であるのは、助動詞及び時制の使い分けの基準である。could,should,mightを「推測」の意味で使い分ける場合のニュアンスや、過去形と完了形の使い分けのニュアンスが直感的に把握出来ていない。仮定法が乱入してくると事態は一層混迷の度合いを増す。前置詞にも副詞にもなれる単語の、その文章における役割を見抜くのも努力が要る。no sooner thanやnothing butといったタイプの構文も滑らかには頭に入って来ない。There's nothingとかI have no ideaといった言い回しは、存在しないものが存在する、無が存在するという発想に基づいた表現で、日本語の思考回路とは明らかに異質な様式ではないかと思う。
とはいえ、こうした瑣末な知識を一つずつ拾い集めていくのは愉しい。日本語であっても、難解な書物ならば、前後の文脈から表現の意図を推測するといった作業は日常的に行なわれる。英語も同様である。私は中学生の頃、父親の書棚を漁っていて偶然、批評家として名高い柄谷行人氏の「意味という病」という著作と邂逅し、その極めて難解な文章を辿りながら、何故かしら無性に魅了された経験がある。普通に考えれば、意味の理解出来ないものに魅了されるというのは不可解な話であるようにも聞こえるが、私は分からないながらも繰り返しその本を読み、少しずつ意味を理解出来るようになっていった。幼い子供が徐々に母国語を習得していく過程というのも、概ねそのような軌跡を描くものではないか。従って、母国語による読書の経験は、異国の言葉の学習に際しても有益な基礎の役割を果たすのである(そう信じたいというだけの話を、こうして私は理窟っぽく正当化しているのである)。
Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (Harry Potter 3)
- 作者:Rowling, J.K.
- 発売日: 2014/09/01
- メディア: ペーパーバック