サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

技巧と本性 三島由紀夫「橋づくし」

 三島由紀夫の「橋づくし」(『花ざかりの森・憂国新潮文庫)に就いて書く。

 四人の女性が願掛けの為に、迷信的な禁則に従って七つの橋を渡ろうと試みる些細な物語に就いて、余り大仰なことを言い立てても無益な気がする。登場する女性たちの懐いている願いの中身も特色があるとは言い難く、作者の筆致は飽く迄も技巧的な洗煉と抑制の維持に、専ら意識を集中しているように思われる。

 あらゆる小説は、それが事実に即して書かれようと、恣意的な妄想に脳天まで浸った状態で綴られようと、作者の技倆と意図に依拠して生み出される絵空事であり虚構であることに変わりはない。それを絵空事と感じさせない工夫が文学的技巧の一端であることは明瞭である。その意味では、殊更に明瞭な主題を読者の視野に向かって映し出すことなく、何でもない一つの挿話の纏まりを、少し風変りな伝聞のように然り気なく呑み込ませる「橋づくし」の構成と筆法は、確かに巧妙で円熟している。満佐子が垢抜けない無骨な女中に対して懐く仄かな恐怖と絶望の余韻は聊か意味深長であるが、そこに何か画期的な発見や斬新な見解を期待しようとは思えない。

 「禁色」「金閣寺」「鏡子の家」「豊饒の海」といった代表的な長篇を繙読すれば直ちに明らかになることだが、三島由紀夫という作家は、嘱目の風景や事物を如何なる作為も加えずに軽やかな筆致で写実的に掠め取るというよりも、独自の観念的な論理を無限に引き延ばして多様な変遷を喚起することに重きを置いている。作者自身が巻末の解題で述べている通り、彼にとって短篇小説とは文学的「軽騎兵」であった時代の忘れ難い形見のようなものである。とはいえ、彼の書き遺した短篇が総て等し並みに軽騎兵的性質を備えている訳ではないことは論を俟たない。三島に固有の文学的価値を最も濃密且つ尖鋭に浮かび上がらせている一篇が「憂国」であることは明白で、それに比べれば「橋づくし」は毒にも薬にもならない、無害な湿布のような役割しか授かっていないように思われる。

 だが、三島が終生手放せずに抱え込み続けた実存的主題というのは、その取り扱いに多大な注意を要する深刻な重荷であって、仮に作家が自己の中心的課題ばかりに専一に関わり合っていたとすれば、市ヶ谷駐屯地における自裁よりも遥かに早い段階で、自制的な仮面を擲ち、反社会的な奇行に踏み切って積み重ねた栄光を粉砕し、世俗の凡庸な生活から無限に放逐されていたかも知れない。彼の夥しい作品の群れが、自己の内面或いは精神との間に緊密な結合を備えた難解で重厚な系列と、世俗的で迎合的で軽妙で遊戯的な系列とに、大まかに二分されていることは恐らく周知の事実であるだろう。三島の本性における特異な資質が、極めて反社会的な要素を、少なくとも戦後社会の信奉する数々の開明的な御題目には相応しくない危険な要素を豊富に含んでいたことは確実であり、その作品における世俗的系列は、自身の暮らす通俗的社会との間に架橋された表層的和解の方便だったのではないかと推測される。戦後的倫理への憎悪は、三島の裡に装填された抜き難い宿痾である。その宿痾を無理に抑え込んで、或いは文学的本流と目される系列の作品の裡に流し込んで鎮静化した上で、俗っぽい経済的生活の必要から、或いは自身の精神的安寧を確保するという健全な目的から、戦後的倫理との妥協的共生を図る為に、世俗的系列の作品を定期的に世へ送ったのではないだろうか。その内面的な抑制が却って、外在的技巧の更なる精緻化を促すのではないか。本音を抑え込んで現実への適合に専念しようと企てる人間にとって、最も重要な関心が寄せられる対象は、専ら技術的な問題に限られる。「橋づくし」の一篇を仕立て上げる為に三島が用いたのは錬磨された技巧であって、技巧的な精緻さを犠牲にせねばならぬほどの奮迅や苦闘ではない。技巧的な水準を高めることに主眼が置かれた創造は、三島にとって本来ならば到底黙殺し難い重大な実存的問題の一時的な留保の上に築かれた、いわば傍流の仕事ではないかと思われる。尤も、これは無学な読者の独善的な憶測である。

 人間は技術を目的に奉仕する手段として用いると同時に、技術そのものを目的化して、その純然たる可能性を熱心に追究することも出来る。何れが正しいのか、それは状況に応じて異なるかも知れないが、技術に溺れることは視野の狭窄を招き、技術全体の統制を紊乱する事態に帰結するだろう。より大きな野心を実現に導く為に、敢えて便宜的に技巧そのものの洗煉に邁進する局面というのは確かに存在している。だが、例えば「憂国」のように、持ち前の文学的課題の高度で精密な凝縮を一つの技巧的実験と看做すならば、この「橋づくし」は明らかに余技の部類に属するものであると言えるだろう。誰にとっても、技巧が技巧そのものの裡に留まるのならば、それは退屈な機械的現象に過ぎない。技巧の無際限な精緻化は、技巧の関与する対象の構造や性質とは無関係に営まれる一つの閉鎖的な空転である。尤も、人間は時に重要で深刻な問題と関わり合うことから遁れて、全く無意味な時間の浪費の裡に憩いたいと願う生き物であるから、その空転自体を問責するのは聊か酷薄に過ぎるだろう。夭折の美学に凝り固まった男の血腥い悪戦苦闘だけを、三島の総てであると言い切るのは、プラトン的な本質主義的還元に類する偏狭な判定である。プラトンは事物及び存在の本質だけを重視したが、私は寧ろ、本質から絶えず逸脱していく偶有的多様性の領域に主要な関心を寄せたいと思っている。その意味では、様々な年代の作品を渉猟する形で編まれた短篇集を繙読することは、作家的本質という一つの「イデア」から脱却する為の有効な手段であると考えられる。「金閣寺」や「憂国」に作者の最も本質的な要素が充満しているのだとしても、それだけで一個の生身の人間の社会的実存が成り立つ訳ではない。本質と偶有との区分の相対性、或いは本質と偶有との間で営まれる動態的な混淆の過程こそ、人間的実存の魅惑的な醍醐味である。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)