サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

花ざかりの墓地 三島由紀夫「牡丹」

 久々に三島由紀夫の『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫)に収録されている短篇小説に就いて書く。

 「牡丹」は、実質七頁にも満たない実に簡素な造作の小説であるが、独特の不吉な感触を牧歌的な風景の表皮で覆った、印象的な作品である。官能と暴力は、三島の文学的遍歴を貫徹する最も重要な旋律であり、それはこの「牡丹」という掌編においても、地下の暗渠を流れる水脈の如く密かに、しかし着実に息衝いている。三島にとって性的な享楽の感覚は血腥い「死」の臭気と緊密に結び付いていて、それは一般的に流通する「生殖」としての性交という道徳的理念とは断絶しているように思われる。

 茄子の苗床なえどこ。葱坊主。道のもう片方は沼になっていて、おたまじゃくしが、日を受けて明るんでいる藻をくぐるのがはっきりと見え、見えない去年の蛙がそこかしこで鳴いている。その一角が区切られて夏大根の洗い場になっている。腿まであるゴム長を穿いた二人の農夫が、せっせと大根を洗っては、かたわらの板の上に、互いちがいに、洗いえた夏大根を積んでいる。

「この洗い立ての白さは妙にエロティックだね」

 と私が言った。(「牡丹」『花ざかりの森・憂国新潮文庫  pp.144-145)

 長閑な遠足の叙景から始まる淡々とした筆致の溝に、不意に投げ込まれた「エロティック」という些細な評言は、この短篇小説の裡に含まれた潜在的暗喩の性質を、物語の景色の中に然り気なく点綴している。続いて顕れる「牡丹園」の描写もまた、花弁と女陰とを結び付ける通俗的な類比の関係に基づいているように読めないこともない。

 麟鳳は赤紫の天鵞絨の大輪である。長楽は薄桃色が中央へゆくほど濃い緋色になっている。なかんずく豪華なのは白い大輪の月世界でその前にはカメラを構えた客が膝まずき、うしろから画家がスケッチの鉛筆をうごかしていた。(「牡丹」『花ざかりの森・憂国新潮文庫  p.146)

 牡丹を女陰の暗喩として、延いては女性たちの象徴として捉えた途端に、牡丹園に集まる夥しい観光客たちの遊覧の風景は、見世物として拘束され憔悴した女性たちを視線で嬲る陰惨な凌辱の光景のように感じられる。それは私の勝手な思い過ごしであろうか? 恣意的で非常識な曲解に過ぎないだろうか? だが、実際にこの牡丹園の所有者である川又という老爺は、牡丹と女性との間に重要な関連性を設けているのである。彼は元々軍部の要人で、南京大虐殺の首謀者であった人物として描かれている。戦犯としての裁きを辛うじて免かれ、恐らくは素性を伏せて世俗に復帰した彼は広大な土地を買い取り、自分が南京で手ずから殺した女の数だけ、牡丹の花を植えた。その意味では、川又の牡丹園は虐殺された女たちに捧げられた墓地のような性質を密かに含んでいると言える。それが贖罪の意識に基づいているのかどうかは分からない。語り手の「私」を牡丹園に案内した友人の草田という男は、次のような見解を提示している。

 ここの持主になってから川又は牡丹の木を厳密に五八〇本に限定した。手ずから花を育て事実牡丹園はこれだけの成果をあげている。しかしこんな奇妙な道楽は何だと思う? 俺はいろいろと考えた。今では多分こうだろうという結論に達している。

 あいつは自分の悪を、隠密な方法で記念したかった。多分あいつは悪を犯した人間のもっとも切実な要求、世にも安全な方法で、自分の忘れがたい悪を顕彰することに成功したんだ」(「牡丹」『花ざかりの森・憂国新潮文庫  p.150)

   若しも川又が自分の過去の蛮行を悔やみ、劇しい贖罪の欲望に囚われていたら、戦犯として自ら法廷に出頭し積極的に懲罰を享けることも出来た筈だ。恐らく川又の本意は、そのような模範的な感情に基づいて牡丹園の造成に赴いた訳ではあるまい。彼は許されざる非道の悪事を、戦後の社会の中で見事に裏返し、長閑で鮮やかな観光の名所に仕立て上げた。そこには壮絶な悪意が、戦後の社会に対する歪んだ敵愾心が殷々と反響している。彼は何食わぬ顔で過去の蛮行を、その嗜虐的な快楽を、美しい無害な花々に化身させ、大衆はその花の美しさに見事に欺かれてしまい、その奥底に眠っている根源的な邪悪の存在に気付きもしない。敗戦の衝撃によって社会の価値観は正反対の方向へ転回し、戦時中の正義は悉く戦後的な倫理によって断罪された。だが、川又の残虐な享楽は、戦時中の日本社会においては、正当化され得る背景を備えていた筈なのだ。断罪を免かれた川又は、敗戦を通じて半ば強制的に革新された現下の社会を嘲弄するように、かつて正義の範疇に属しながら、今や最大の野蛮な悪行として糾弾されるようになった往年の虐殺の痕跡を、贈答品のように無辜の俗衆へ向かって差し出しているのである。そして何も知らない群衆が牡丹の美しさを嘆賞する様子を黙って見物している。その意味では、牡丹園は皮肉で両義的な性質を賦与された象徴的墓地である。そこに葬られているのは虐殺の被害に遭った不幸な女性たちの亡骸だけではない。かつて正義でありながら、今や重大な犯罪へと堕落した数々の奇態な権威と栄誉が、牡丹の根元には数多埋葬されているのである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)