サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(新年度・会者定離・nostalgia)

*明日から、新年度が本格的なスタートを切る。何処の会社でも家庭でも組織でも、卒業の別れ、異動や転職の別れ、移住の別れを一通り嘆いたり悲しんだりして、新しい生活への心構えを整えた後の、愈々の門出の場面が数多く演じられるのだろう。私の勤め先は五月一日が期初の区切りなので、社内的には新年度ではないが、新入社員の配属は四月であり、明日は盛大な入社式が執り行われる段取りになっている。

 退職を願い出ていた部下の社員が、医者の診断書の都合で、三月の半ばから急遽休職に入らねばならなくなり、この二週間ほど、後任の補充もないままに店を切り盛りしていた。上司も連日応援に入り、辛うじて私の休日を捻出してくれた。アルバイトのスタッフたちにも助けられて、御蔭様で無事に苛酷な日々を乗り切ったところである。本日付で後継の社員が着任し、もう少し待てば研修を卒えた今年度の新入社員も入店することになる。良くも悪くも環境が激変する季節である。毎年のことだが、何だか足許の不確かな気分で、俄かに気温の上がってきた日々の中を生き抜いている。

 人事異動というのは不思議なもので、人が去っていくときには随分と名残惜しく思えるものなのに、一旦去ってしまえば、そして後任の新顔が登場して一月も経てば、過去は遠い夢のように記憶の彼方へ霞んでしまい、今まで当たり前であった日常が急に縁遠く白々しいものに感じられるようになる。どんなに重要な人物であっても、その穴は、傷口を瘡蓋が必ず覆ってしまうように、自ずと綺麗に塞がってしまうものなのだ。それが組織の生理であり、共同体の秩序の「地力」というものなのだろう。

 何はともあれ、過去を懐かしむのは感傷的な気分に過ぎず、そこに生産的な明るさは存在しない。草臥れた休日にソファで転寝しながら夢見る分には何の不都合もないが、私たちは次々と押し寄せてくる新しい猥雑な日常と連戦せねばならぬ浮世に暮らしている。泣き言や譫言に溺れて無為な時間を費やし、肉迫する否定し難い現実から顔を背けるのは愚の骨頂である。前を向いて遣れることを探すのが健全な精神であり、前を向く決意と勇気が揺るがないからこそ、過ぎ去った日々を懐かしむことが健康的な趣味として成り立つのである。ノスタルジーは精神の阿片であり、その快適な魅惑に脳髄まで銜え込まれてしまえば、未来に対する挑戦的な気概は一切合財、蒸発する。それでは過去の尊ささえ、薄汚く穢れてしまうのである。

 過去が美しく見えるとき、私たちは例外なく現実に対する否定的な理解を感傷的な糖衣で包むことで誤魔化している。勇気の涸渇を、未来への展望の欠如を、過ぎ去った幸福の残像によって埋め合わせようと企んでいる。そうした幻想が如何に人間を退嬰的な状況へ導くか、私たちは充分に慎重な検討を加えるべきであろう。過去が美しいのは、それが生身の人間に対して無害であり、一種の「画餅」である為だ。死人に鞭打つことが恥ずべき悪習と看做されるように、過去の出来事を悪く捉えたり批判したりするのは詮無い所業である。従って、過去は自動的な「聖化」の対象に据えられる。その馬鹿げた戴冠式に涙を流すのは人生の紛れもない空費である。

 未来に向かう気持ちだけが、本当の意味で過去を美しい勲章、或いは美しい傷口に変えることが出来る。未来のない人間には、想い出など産業廃棄物でしかない。別れた夫婦にとって、共に暮らしていた記憶は不良債権である。分かち合う相手を失った追憶は、単なる薄汚れた古着でしかない。未来へ通じる道を辿っている間にだけ、過去は燦然と輝き、本来の価値を発揮し、数多の教訓を汲み上げる為の井戸と化す。前進している人間にしか、過去の足跡は意味を持たない。立ち止まった人間にとって、足跡は己の限界を示す標識に過ぎないが、未来を信じる者にとっては、足跡は可能性の放物線に他ならないのである。それは果てしなく続く航跡の序奏として顕現するのだ。