サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三島由紀夫「沈める滝」に関する覚書 1

 三島由紀夫の『沈める滝』(新潮文庫)を読了したので、断片的な感想を書き留めておきたい。

①「愛情」という観念を信じない男の肖像

 三島由紀夫が「沈める滝」という作品の内部に植え付け、鋳造した城所昇という人物の如何にも観念的な造形には、仄かに「禁色」の南悠一を彷彿とさせる彩色が施されている。昇は悠一のような神話的美貌を作者によって授けられてはいないが、女を愛さないのに女からは愛されるという特徴は瓜二つである。「禁色」の場合には、悠一が女を愛さない理由として「同性愛」という確固たる性的特質が用意されていたが、昇の場合は幾らか抽象的である。尤も、それが本当に抽象的であるかどうかは、断定し難い。何れにせよ、この「沈める滝」という作品の内部に「禁色」と同一の主題の残響が含まれていることは端的な事実であると私は思う。

 昇は未だかつて一人の女と、一度以上夜をすごしたことがなかった。自分の空想力の乏しさをよく知っている昇は、二度目の逢瀬の援けになるその力に頼らなかった。即物的な好奇心だけが彼に愬えた。彼を冷酷だと云えるだろうか。一度だけで人はそんなに冷酷になれるものではない。一度だけでは、捨てたり、捨てられたり、という残酷な人間関係は生じようがない。

 終った行為から離れるようにきわめて自然に、その肉体から、その女の存在そのものから離れること、昇はいつもそれを志し、予め伏線を張り、大抵の場合、その通りになったのである。彼はそこのところをいつも巧くやったので、単なる即物的関心から子供が生れてしまうというような矛盾に、たえて身を縛られることがなかった。

 或る官能に身を委ねることは、昇にとっては知的な事柄だった。一人の特定の女に対する心理的な認識慾なるものの曖昧さをよく承知していた昇は、単なる反復を深化ととりちがえたりはしなかった。感覚に惑溺する才能の持ち合せがなかったので、彼はまるで自制や克己に似かようほど、ひたすら欲望の充足のために、おのれの知的な統制を心がけた。もし認識が問題なら、色事は決して一つところに足踏みしていてはならないし、もし特定の女を愛することが問題なら、色事はとたんにその抽象的な性格を失うのだ。しかしそもそも性慾とは、人間を愛することであろうか?(『沈める滝』新潮文庫 pp.21-22)

 ここには「性慾」と「愛情」を接続する社会的な枠組みへの疑問符が刻まれている。言い換えれば、単なる「性慾」に「愛情」という意味を附与する社会的な観念の体系への疑念が表明されている。それが「禁色」にも通底する重要な主題であることは言うまでもない。「禁色」とは違って「沈める滝」の主役は専ら異性を好むが、女性に対する関係の持ち方は「禁色」の悠一と相似形を描いている。城所昇は典型的な「女誑し」であるが、彼は漁色家であることによって、社会から公認された「異性愛の原理」に抵抗していると看做すことが出来るのだ。

 城所昇は徹頭徹尾「即物的関心」だけに囚われた人物として描写されている。「単なる即物的関心から子供が生れてしまうというような矛盾」という皮肉の利いた言い回しは、彼が単なる性慾に過ぎないものを人間的な愛情と同一視することに関して、極めて禁欲的な性格の持ち主であることを含意している。彼は「官能」が単なる官能以上の何かを意味するようになる種類の観念的な越権を否定している。

 夜のおののき、官能的な燈火、いかなる場合にも勝利を疑わない心、……彼は一人で歩いているとき、明敏な眼差をし、いきいきと呼吸した。昼間のきちんと秩序立てられた整理戸棚のような社会から、夜は完全に脱け出して無名の任意の人間になることの快楽を、おそらく祖父は、生涯知らなかった。祖父は猟といえば、あらかじめ勢子に狩り出させて囲いの中へ追い込んだ獲物を、大ぜいの見物人の前で、金ぴかの弓に矢をつがえて、射てみせることだと思っていたのだ。……(『沈める滝』新潮文庫 p.24)

 「無名の任意の人間になることの快楽」とは、あらゆる事物に名前を授け、意味を刻まずにはいられない人間的社会の制約から解放されることの快楽である。人間は純然たる物質的存在にさえ、何らかの超越的な観念を附与せずにはいられない。それが幻想に過ぎないとしても、幻想によって形作られた「精神」の体系が社会を覆っている以上、超越的観念の接続と支配を粘り強く峻拒し続けるのは至難の業である。城所昇が「ただ単に官能的なものであっても、彼はそれを崇高化したり軽蔑したりして歪めずに、まっとうにそれに身を委ねることのできる稀な若者の一人」(p.8)として描かれ、その特質を強調されるのは、作者の主眼が超越的観念への抵抗、具体的には「異性愛」と「結婚」と「家庭」の組み合わさった近代的な「ファンダメンタリズム」(fundamentalism)への抵抗に置かれていることの露骨な反映であると言い得るだろう。

 昇が即物的関心に固執するのは、言い換えれば「禁色」において「感性の密林」と称された領域に固執するのは、純然たる肉体的なエロティシズムを「結婚」や「家庭」の論理に接続することに抵抗する為である。無論、そのような特異な信念を小説の世界に導入するに当たって、作者は几帳面にも、城所昇の特殊な生い立ちに就いて一頻り説明した上で、物語の本編へ足を踏み入れている。だが、小説としての滑らかで自然な外貌が保たれているかどうかは、敢えて触れずにおきたい。少なくとも「沈める滝」に関して言えば、作者の主眼は作品としての艶やかな仕上がりや洗練された出来栄えではなく、即物的関心に殉ずる特異な男の実存を追求することに懸けられていた筈であるからだ。

 昇には独特の倫理感があった。顕子にせよ、又ほかの有夫の女にせよ、少くとも情事の発端では、彼は一度として「姦通の趣味」などにそそのかされて、行動したことはなかったのである。彼の即物的関心には、その対象のもっているいろんな現実的属性に対する興味は、ほとんどまじっていず、もし昇と附合のあった女の目録を作ってみれば、その階級や環境の雑多さで、昇が決して何らかの趣味に従って行動しているのではないことがわかっただろう。顕子のような特殊な場合は、たまたま昇が一夜ぎりの戒律を破って、彼女の引きずっているくさぐさの現実的属性とも、附合わねばならぬ羽目に陥ったというのにすぎなかった。

 厳密に言えば、彼はそういう現実的属性とまともに附合った憶えはなかった。愛の行為が結婚や姦通と名付けられる一種の社会的行為に敷衍されるそこのところの継目の意識が、昇にはなかった。次元のちがうものを巧妙に継ぎ合わせる技術は、この孤児の若者の心のなかで、いちばん成熟していない部分であった。(『沈める滝』新潮文庫 pp.256-257)

 昇の女性に対する関心は首尾一貫して即物的なものである為に、情事を「結婚や姦通と名付けられる一種の社会的行為」として捉えることが出来ない。出来ないというのが大袈裟であるならば、捉えようという意志が根底的に欠けている。彼は「愛の行為」の意味を即物的な官能の問題に限定する為に「知的な統制」を堅持するような人物である。彼が無機的な自然の峻厳な姿に憧れ、心からの深甚な親しみを覚えるのは、それが本質的な意味で常に「即物的であること」を命じられている存在であるからだ。人間的な尺度を超越した大自然の威容は、当然のことながら人間が捏造した多彩な観念による汚染の被害を受けていない。そこには「現実的属性」と称される非現実的な観念の欠片さえも存在していないのである。

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)