サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「労働」と「放蕩」の二元論(中上健次をめぐって) 1

①「労働」の神話的な性質、あらゆる「記憶=意味」からの離脱

 中上健次は「岬」から始まる所謂「紀州サーガ」を書き上げることによって、時代に冠たる偉大な作家へ成長したと看做すのが、世間に流布する通説である。批評家の柄谷行人は、盟友である中上健次の作品が絶えず、前作の批判的な乗り越えとして紡がれていることを幾度も強調している。確かに「岬」と「枯木灘」との間、或いは「枯木灘」と「地の果て 至上の時」との間には、同じ物語の時系列的な側面からの延長という形式には留まらぬ、或る質的な変貌が必ず埋め込まれている。

 作者の最初の長篇小説であり、屈指の傑作と讃えられている「枯木灘」において、主役である竹原秋幸は幾度も「土方」という労働の没我的な「幸福」に浸っている。土を掘り、シャベルで抄い上げる肉体労働の無際限な反復を通じて、秋幸は四囲に広がる自然との官能的な融合を経験するのだが、その没我的な幸福が定期的に強調されるのは偏に、彼がそのような没我的幸福を許さない厄介な「血」の諸条件に搦め捕られてしまっているからである。つまり「枯木灘」の世界においては、繰り返し執拗に描写される肉体労働の特権的な法悦は、入り組んだ「人間」の血腥い社会からの逃避と安楽という側面を濃密に示しているのである。

 秋幸は二十六歳だった。なにもかも察しはついた。繁蔵はけっして秋幸にこと細かに教えはしなかったが、一つの工事を入札で落とすのにも茶屋遊びがあり裏工作がいる。冠婚葬祭のつけ届けはいる。ただそれにいま首をつっ込みたくなかった。繁蔵のつくった組の経営を引き継いだ文昭と、文昭に請われて現場をまかせられた秋幸の違いを、彼は知っていた。いま見たくない。知りたくない。繁蔵や文昭も、それから美恵の夫の実弘も、あの蠅の糞の王とたいして違わない、と思っていた。彼らと違うためには、まず働くことだ。十九で土方についてから、その考えはいまも昔も変らなかった。日のはじまりと共に働き、日の終りと共に土を相手に体を動かすのをやめる。日に照らされ、光に染められ、季節の景色に染められ、秋幸は自分が一切合財なくなり自由になる気がする。複雑な血のつながりの中にいることは確かだった。だがそれは秋幸だけに限らなかった。文昭も徹も、そして洋一さえもそれ相応に絡みあった関係の中にいる。(「枯木灘河出文庫 P27)

 この「労働」に対する考え方を単なる道徳的な勤勉さや純粋さと自動的に同一視するのは誤解の素である。「茶屋遊び」や「裏工作」や「冠婚葬祭のつけ届け」に関わりたくないと思う秋幸の心情を健全な道徳性の反映と捉えるべきではない。その道義的な善悪は別として、それらの後ろ暗い不潔な策略の類も明らかに「働くこと」の一環であり、それを賤視した上で現場の労働だけを特権的に扱うのは「偏向」であり、個人的な「信条」に過ぎない。秋幸が「裏工作」を嫌悪するのは、それが「複雑な血のつながり」と似通った特性を有する社会的な領域へ、彼の存在を包摂してしまうからである。彼にとって「働くこと」は「自分が一切合財なくなり自由になる」ことを意味しており、その限りにおいて「働くこと」は極めて清廉で純一無雑の営為である。だが何故、秋幸にとっては「働くこと」が「自己の消滅」と結び付かなければならないのか。「自己の消滅」が何故、重要な特権性を帯びることになるのか。その背景には無論、彼の投げ込まれた「複雑な血のつながり」に関する諸問題が横たわっている。種違いの兄弟姉妹、悪名高い実父、様々に縺れ合った人間同士の錯雑した関係性の中に置かれ、閉鎖的な環境で日々を生き抜いている秋幸にとって、恐らく「労働」は「純粋な自己」への幻想的な回帰を可能にする特別な時間であったのだ。

 秋幸は日を受けて風に色が変る山の現場の景色を見たかった。水に撥ねる光に眼を眩ませたい。秋幸の体がその快楽を覚えていた。そうやって十九以来、この狭い土地で秋幸は暮らしてきた。土の色は秋幸を洗った。つるはしを振りおろして力をこめて土地を掘り起こし、額から流れ目蓋に玉になってくっついた汗で、変哲もない草は明るい緑に光った。風が吹いた。秋幸はいきなり吹く風に喘ぎ、大きく息をした。血と血が重なり枝葉をのばしまた絡まりあう秋幸は、吹く風には一本の草、一本の木、葉と同じなのだった。風を感じとめる草として秋幸は在る。そんな自分が好きだった。いま、むしょうに日を見たかった。日にあたれば、何もかもがはっきりと形を取ってあらわれ、草が草にすぎないと分かるように、秋幸は秋幸にすぎないことが分かる。(P76)

 秋幸は自分の存在に付き纏う社会的な意味を消滅させたいという切迫した欲望の虜囚である。「血と血が重なり枝葉をのばしまた絡まりあう秋幸」としての自己から、一切合財の「意味」を剥奪したいという衝迫が、彼の内面に「肉体労働の至福」という観念を植え付けているのである。つまり、彼にとって「働くこと」は錯雑した社会性からの解放を伴っているのだ。「秋幸は秋幸にすぎないこと」とは、入り組んだ血縁の閉鎖的な呪縛から解放された自意識の様態である。

 「枯木灘」という作品は、いわば二つの要素の反復的な鬩ぎ合いとして構築され、或る不穏な律動を刻んでいる。秋幸が置かれている錯雑した地縁と血縁の共同体、それに纏わる種々の記憶のパートと、秋幸が労働に精励することで非人間的な自然との幻想的な融合を感得するパート、これらの対蹠的な旋律が交互に現れる。言い換えれば、秋幸の労働の描写は一つの詩的な転調であり、入り組んで混濁した社会的関係性の「休符」のようなものである。

 光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、草の葉、土に当っていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。いつも、日が当り、土方装束を身にまとい、地下足袋に足をつっ込んで働く秋幸の見るもの、耳にするものが、秋幸を洗った。今日もそうだった。風が渓流の方向から吹いて来て、白い焼けた石の川原を伝い、現場に上ってきた。秋幸のまぶたにぶらさがっていた光の滴が落ちた。汗を被った秋幸の体に触れた。それまでつるはしをふるう腕の動きと共に呼吸し、足の動きと共に呼吸し、土と草のいきれに喘いでいた秋幸は、単に呼吸にすぎなかった。光をまく風はその呼吸さえ取り払う。風は秋幸を浄めた。風は歓喜だった。(P80)

 例えば、この「労働」の幻想的な至福の告白は、恋人である紀子との束の間の逢瀬の後に置かれているが、その逢瀬にも様々な社会的因縁がどす黒い汚点のように混入している。紀子は「旅館に男と泊ったと噂されて」苦悩している。秋幸は「ほっとけ」と繰り返すが、それは自分自身に言い聞かせる科白のようにも聞こえる。「枯木灘」の世界では、人々は絶えず真偽の定かならぬ種々の噂に取り巻かれて、寄生されながら生きているように見える。狭隘な共同体の拘束と制約の中で、彼らは常に相互的な監視の息苦しい圧迫を感じ続けている。ここには近代的な「自由」の理念が通用しない。自立した主体的な個人の権利など、極めて容易に蹂躙され、捨て値で買い叩かれてしまう。素性や家柄や、様々な先天的条件によって有無を言わさず規定される人生の堪え難い閉塞感に、秋幸も紀子も憔悴し切っているのだ。

 秋幸の切迫した遁走への欲望は、彼が抱え込んでいる重層的な「記憶」の巨大な質量によって育まれた、反動的な衝迫である。彼はあらゆる事物の知覚から、日常の些細な経験から、直ちに夥しい分量の「記憶=意味」を抽出して、その厖大な熱量に搦め捕られてしまう。彼の住む世界に純粋な「事物」が存在することは不可能に等しいように感じられる。秋幸が「労働」の営為に期待するのはまさしく、その不可能な夢想であり、あらゆる「記憶=意味」から解除された純然たる事物として、自らの実存を享受することである。だが、労働の特権的な至福は飽く迄も限られた時間と空間の枠組みの中で、束の間の逢瀬のように顕現するだけであり、押し寄せる社会的な意味の凄まじい重量に抗し得るほどの堅牢さは有していない。

 秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。

 日がかげった。(P107)

 繰り返される労働の描写、自然との幻想的な融合の告白は、徐々にパセティックな強度を高めていくように思われる。それは単純な「気分転換」のような時間ではなく、もっと切実で命懸けの遁走への欲望であり、錯雑した社会的関係から切り離されて「自分が考えることもない一本の草の状態」に耽溺し得ることを必死に信じ込もうとする哀切な努力の相貌を備えている。同様の信仰告白が反復されるほどに、その信仰の不可能性が不穏な予兆と共に立証されていくように感じられる。それは具体的には「蠅の王」と渾名される実父・浜村龍造の接近という形で具体化される。浜村龍造の実子であることは、秋幸にとっては最も忌まわしく抗し難い「記憶=意味」である。彼が最も強く逃れたいと願っている、否み難く厳粛な事実である。

 それはまったく突然だった。その男は、一旦停止をしたダンプカーの前にいた。日に染まって顔が黄金に光っていた。車に乗ってきたらしくサングラスは外していた。「おい」と言った。秋幸が素知らぬ振りをしてダンプカーのハンドルを右に切り、右に曲ろうとすると、男は「兄やんに、ちょっと話があるんじゃ」と言い、歩み寄った。そして振り返り、「こっちへ来んか」と言う。道の際にクラウンのライトバンが停まり、その前に秀雄がいた。秀雄は秋幸の眼を見つめてまっすぐ歩いてくる。

 秋幸はダンプカーからとびおりた。「ちょっと待っといてくれ」と徹に言い、「待っといたら泳ぎにも――」と冗談を言おうとして、顔がこわばるのを知った。徹が、男を見ている。男は、秋幸を見つめている。秋幸は秀雄がダンプカーの腹に手をかけ、体を凭せかけるのを見た。タイヤについた泥を払うつもりか、タイヤを柔道の足払いの要領で払うのを見た。悪意でそれをやったわけではないのにふと、飛んで行って胸倉を摑まえ、その秀雄を投げつけてやりたくなる。(P109)

 こうした悶着が、秋幸の最も憎悪する「複雑な血のつながり」の齎す惨劇であり、鬱陶しい椿事であることは言うまでもない。彼は懸命に己の質朴な生活を律し、労働に精励することで、こうした錯雑した社会的関係の罠から執念深く逃亡を企て続けるが、それでも彼は徐々に引き摺り寄せられていく。この内的な葛藤はしかし、秋幸の内なる両義性が呼び覚ました事態であるとも言える。本当に「複雑な血のつながり」を嫌悪するのならば、義理の姉たちのように郷里を捨て去り、それこそ紀子と駆け落ちでもすればいいのだ。そういう決定的な行為に踏み出さない限り、彼の巻き込まれている受動的な状況を改革することは不可能である。言い換えれば、秋幸は決して世界の「外部」を想定しようと試みないし、この閉鎖的な環境の具体的な消滅を信じてもいない。彼は結局のところ「複雑な血のつながり」を抹消することが可能であるという信仰には与しないのである。それは何故なのか? 何故、秋幸は自分自身を「複雑な血のつながり」から解放する技術的な手段を発明することに関して、禁欲的な方針を維持するのか?

「何が兄やんな」と秀雄が薄ら笑いをつくりまたチッと音させて唾を吐く。秋幸はその秀雄の顔を見つめ、いきなり自分の体に炎が立つ気がした。何故だか分からなかった。それを筋道立てて分かるには秋幸は、余りに入り組みすぎた関係だった。体の大きなその男蠅の王龍造がここに居る。その子の秀雄がそこに居る。秀雄の兄ではあるが、秋幸は兄ではない。いや腹違いの兄だという気持ちは秀雄と町で出あう秋幸の心のどこかにあったはずだった。

 秋幸は、郁男を想い出した。郁男は秋幸の種違いの兄だった。秋幸はそう思いつき、或る事に思い当り愕然とした。郁男は、今の秋幸と同じ気持ち、同じ状態だったのだ。秋幸は薄暮の中に立ったまま、空にまだある日をあびて、自分の眼が黄金に光る気がした。

 殺してやる。秋幸は思った。郁男はその時、そう思ったのだった。その時の郁男の眼は、今の秋幸だった。郁男は何度も何度も鉄斧や包丁を持って、路地の家から〝別荘〟の辺りにある義父の家へ、フサと秋幸を殺しにきた。秋幸は生き続けて二十六歳になり、郁男は二十四歳で首を吊った。(P111-P112)

 この逃れ難い「再帰性」の認識は、秋幸にとって致命的な衝撃を孕んでいる。彼は「複雑な血のつながり」が単に鬱陶しいだけの関係性ではなく、人間を根源的な次元で呪縛していることに開眼したのである。歴史は繰り返され、血の惨劇は反復される。それは肉体の内部に刻み込まれ、注入された剣呑な呪詛のようにも感じられる。

 秋幸は徹の話を聞いてはいなかった。男、それが秋幸の実父なのだった。その男とその息子が後も見ず車を発進させた山の夕暮の中にいる。秋幸の半分が顔をあらわしはじめているのだった。いつかその半分ほどの暗闇は光にさらされ、二十六歳の秋幸という体の中に閉じこめられたものがあばかれる。美恵はまた気がふれる。紀子は泣く。それはあの男が、蠅の王たる浜村龍造がことごとく仕掛けたわなだった。さと子との秘密を、男にあらいざらい打ちあけると男はどういう反応をするだろうか? と秋幸は思った。(P112-P113)

 秋幸は物語の発端から、自分の体内を流れる浜村龍造の血の意味を考え続けている。或いは、その危険な側面を最初から自覚し続けている。彼が「働くこと」に対して過剰なまでの意味付けを施してきたのは、それが「複雑な血のつながり」の齎す災厄への抑圧的な効果を有していたからだ。彼の労働の場面が一種の「儀式」のように描かれているのは、それが内なる「血」の暴力的な高ぶりを鎮める為の呪いである為だ。しかし、浜村龍造との具体的な接触を境として、秋幸は己の呪いの効用の限界に直面し始める。それは単に浜村龍造の「血」によってのみ惹起された事態ではなく、自殺した義兄に関する記憶の新たな「解釈」によっても支えられている。彼は悲劇の再来を予感する。恐らく郁男の縊死は、秋幸にとって「複雑な血のつながり」が招来する惨劇の象徴である。龍造との対面が郁男の自殺の記憶を喚起するのは、それが「血」に纏わる悲劇の再来を予告しているからなのである。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)