サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「労働」と「放蕩」の二元論(中上健次をめぐって) 3

 引き続き、中上健次に就いて書く。

③「系譜」をめぐる鏡像的な関係性

 人間の生物学的な構造と秩序の内部に根源的な仕方で装填された「性愛」の原理は、否が応でも他者との間に複雑な関係性を織り成す。そもそも「性愛」の根本的な機能である「生殖」の原理自体が、他者という不可解で取り扱いの困難な存在を創出する役割を担っていることは言うまでもない。

 「枯木灘」の全篇を貫いているのは、そのような「性愛」の原理に対する両義的な感情である。秋幸は絶えず「性愛」から逃れようとして、しかもそれが本質的に逃れ難いものであることを、ひしひしと感じ続けている。どれほど「性愛」の原理を嫌悪し、透明な無機物のような存在に己を擬することに憧憬しても、自分が親の血を受け継いで産み落とされた存在であるという根源的な事実を否認することは出来ない。「性愛」が齎す諸々の惨劇を忌避する為に「性器」を斬り落としたところで、その根源的な問題、つまり「他者」の問題を根底から消去することは不可能なのだ。

 自分を透明な存在として捉えること、あらゆる煩わしい人間同士の入り組んだ関係性から切り離されて生きること、それが秋幸の内面を領する主要な衝動であり欲望であることは、作中で繰り返し明示されている。

 海は、秋幸をつつんだ。秋幸は沖に向かった。波が来て、秋幸はその波を口をあけて飲んだ。海の塩が喉から胃の中に入り、自分が塩と撥ねる光の海そのものに溶ける気がした。空からおちてくる日は透明だった。浄めたかった。自分がすべての種子とは関係なく、また自分も種子をつくりたくない。なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい。透明な日のように在りたかった。それは土方をしている時と一緒だった。沖に向かいながら、泳ぐ自分の呼吸の音をきき、そのままそうやって泳ぎつづけていると、自分が呼吸にすぎなくなり、そのうち呼吸ですらも海に溶けるはずだった。(『枯木灘河出文庫 p.163)

 だが、実父である浜村龍造の接近は、そのような「なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい」という秋幸の欲望を妨げる。同時に秋幸の内部には、己の来歴に対する関心が、或いは「俺は何者なのか」という問いが形成される。己の来歴を問うことは、己の実存の本質を問うことと密接に通じ合っている。「父」の登場と「来歴」の探究は互いに不可分の関係に置かれているのだ。

 それからコーヒーを飲みながら徹は川遊びの話をした。秋幸は徹の話をきいてはいなかった。秋幸はスナックの窓から外を見た。その男の生まれた有馬は眼と鼻の先だった。山と海にはさまれた土地、このあたり一帯はほとんどそうだった。山は高野にも、奈良にも伊勢にも通じた。山と山が折り重なり、山の切れたところにわずかばかりの土地があり、海がある。そこを熊野と言った。その土地のどこをとっても、日に蒸され、風にさらされ、夏になるときまって台風に襲われ、火事が多く人殺しが多かった。昔からの本によく出てくる伝説の多いところだった。(『枯木灘河出文庫 pp.157-158)

 自分が何者であるのかを知りたいという欲望は、秋幸自身の出生が極めて複雑に絡み合った関係性の中で育まれたものであるからだろう。或いは、彼は明確な「自己」というものを持ち得ない人格の持ち主であるのかも知れない。彼が直ぐに「自然」との幻想的な融合の快楽に溺れてしまう人間であることは、繰り返し登場する「労働」の描写を徴すれば明らかである。言い換えれば、彼の「自己」は余りにも複雑な血縁の絡まりに蝕まれて、或る宿命的な「透明性」を附与されてしまっているのではないか。それが秋幸の抱える実存的な苦悩の根本的な要因ではないだろうか。

 複雑な過去によって明確な「自己」を破壊されてしまった人間として秋幸を捉えるならば、彼が「自然」との幻想的な合一を通じて、いわば「自己の喪失」の快楽を自瀆のように味わうのも自然な現象であると言い得るかも知れない。「自然」との幻想的な合一の愉楽を経験する為には、確固たる社会的な自己の境界線は不要であり、寧ろ障碍となる。己を解体し、その社会的な関係性を悉く切断し、世俗の猥雑な事情を遮断しない限り、無機的な「自然」の領域へ没我的な陥入を遂げることは不可能である。秋幸のメンタリティは、そのような没我的陥入の成立を容易にする特性を備えている。明確な「自己」を持ち得ないということは、自分自身で「私はこういう人間である」という明確な定義を下すことが出来ず、その定義を基軸として己の社会的な実存を構築することが出来ないということである。気付けば直ぐに周りの自然、大地や草木や海の類に自分自身の存在を同化させてしまう秋幸のメンタリティは、あらゆる社会的な規定から逸脱し、不可解な漂流を反復する。

 秋幸は日を浴びて川原に立って、二人を見ていた。浅瀬に堰をこしらえるために洋一が石を持ちあげて運ぶ。様々なことがこの一、二年のうちに起こったのだった。人が様々な噂をしていたのだった。その噂のひとつひとつに自分がかかずらっているのが不思議だった。おれはここに在る、今、在る、秋幸はそう思った。だが、人夫たち、近隣の人間ども、いや母や義父、姉たちの口からついてでる噂や話の自分が、ここにいる自分ではなくもう一人の秋幸という、入り組んだ関係の、あの、人に疎まれ憎まれ、そして別の者には畏れられうやまわれた男がつくった二十六歳になる子供である気がしたのだった。「あの男はどこぞの王様みたいにふんぞりかえっとるわだ」いつぞや姉の美恵はそう言ってからかった。「蠅の糞みたいな王様かい」秋幸は言った。その蠅の王たる男にことごとくは原因したのだった。(『枯木灘河出文庫 p.15)

 或いは、このように言い換えることが出来るかも知れない。秋幸は、社会的な関係性の内部で、様々な観念によって規定された自己、他者の視線によって規定された自己を、内在的な自己と巧く接合することが出来ない性格の持ち主である。彼にとって「噂」のアマルガムとして産み出された幻像のような自己と「ここに在る」自己は必ずしも合致しない。彼は社会的な自己というものを信頼する能力を持っていない。錯雑した社会的な関係性の中に、適切な仕方で自己の存在を配置することが出来ない。この「分裂」或いは「断層」は、如何なる原因に基づいて作り上げられたのだろうか。

 もっと端的に、彼の眼には錯雑した社会的関係に搦め捕られた「自己」の異様な形態が「信じられない」のかも知れない。余りにも「複雑な血のつながり」に呪縛された客観的な自己の様態が、まるで他人事のように感じられるのではないか。この「自己を他人として感受する」という離人症的なメンタリティは、氾濫する「過去」の凄まじい重量によって齎された、いわば精神的な「骨折」の結果である。堪え難い経験の重量が、何処かで彼の内なる「自己」との関係性を骨折させたのではないか。それは秋幸にとっては己の実存と精神を外在的な脅威や抑圧から保護する為の不可避的な戦略だったのではないか。

 周囲が見ている「秋幸」と彼自身が捉えている「秋幸」との間には、乗り越え難い断層が介在している。言い換えれば、彼は何処かで「秋幸」という人間を他者のように眺めている。内在的な自己と社会的な自己との間に設けられた、この顕著な「断層」は、秋幸自身を野蛮で複雑な外界から保護する弁膜のようなものである。

 それは一定の調和を保って、これまで秋幸の生活を庇護してきた。社会的な自己と内在的な自己、彼を取り巻く夥しい数の「関係者」との距離、それは落ち着いた平穏な律動を維持してきたのである。その幸福な「諧和」の崩壊と、それが齎す血腥い惨劇の様相を剔抉することが、この「枯木灘」という作品の重要な主題である。

 秀雄の姿が見えなくなってから秋幸は、五郎によって、自分が二十六歳の今まで、その男やその男の血につながった者と保っていた距離が混乱したことに気づいた。山と海と川に四方を取り囲まれた狭いこの土地で、秋幸は生き、その男も生きる。秀雄もさと子も生きる。(『枯木灘河出文庫 p.177)

 離人症的なメンタリティが支えてきた生活の諧和は、次第に狂い始める。彼が「他人事」のように遠ざけてきた「複雑な血のつながり」が、一挙に堰を切って押し寄せ始めたのである。それは具体的な物語の進行としては、実父である浜村龍造の接近として顕現する。或いは、このように言い換えることも出来るだろう。実父である浜村龍造への抜き難い憎悪と敵意が、彼の離人症的なメンタリティを構築する根源的な要因であったのだと。

 その男龍造蠅の王が、秋幸の実父だった。その蠅の王の周りにはいつも、噂が立ちのぼっていた。大きな男だった。どこの馬の骨やら、と人は言った。或る時、こんな噂が流れた。熊野の有馬の土地に、浜村家先祖代々の碑をたて、元をただせば馬の骨などではさらさらなく、戦国の時代、織田信長の軍に破れた浜村孫一という武将が先祖である、と言いはじめた。人の失笑を買っていた。「金があれば御先祖様までええのんと取り換えできるんかいの」人は言った。「そんなことまでして、町の人の仲間入りをしたいんかいよ」一度その碑を見てやろうと秋幸は思っていた。(『枯木灘河出文庫 p.27)

 実父に対する敵意、恥ずべき悪事に手を染めて成り上がった悪党が自分の実父であるという現実への内的な拒絶、それが秋幸の胸底に離人症的な「切断」を強いる。彼は実父に対する敵意と憎悪を消し去ることが出来ず、結果として彼の内在的な拒絶はそのまま、性的なものへの道徳的な嫌悪にまで拡張され、敷衍される。父親を拒絶すること、母親及び姉の側に立つこと、それが性的な諸観念への抑圧として機能する。同時にそれは「複雑な血のつながり」を自分とは無関係な事象として排斥し、己の内面とは異質な次元、異質な領域に移行させることを意味する。秋幸が「なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい」という欲望に駆り立てられる根本的な原因は、この実父に対する峻拒に関わっている。

 実父に対する内的な拒絶が、彼の離人症的なメンタリティの根本的な原因であり、その「複雑な血のつながり」を「他人事」のように取り扱う姿勢の淵源であるならば、実父の接近が、そのような秋幸の内面的な秩序を瓦解させるのは当然の成り行きである。言い換えれば、実父の接近は「複雑な血のつながり」を「他人事」として捉える秋幸の心理的な機制を根本から崩壊させる事件なのである。秋幸は徐々に外界の現実へ連れ戻され、離人症的な諧和は危機に瀕する。

 一方の浜村龍造は、己の「血のつながり」を捏造することで、明確な「自己」を建設し、その正統性を確立しようと躍起になっている。彼は「存在しない記憶」を拵えることで、己の存在を支えようとする。そうした振舞いを単なる虚栄心の顕れに過ぎないと断定して斥けるのは、生産的な態度ではない。興味深いのは、秋幸の実存と龍造の実存との間に鏡像的な関係性を見出し得る点だ。秋幸は否応なしに背負い込まされた「複雑な血のつながり」を自分とは無関係な事柄として排斥することで己の実存を支えている。一方の龍造は、本来自分とは無関係な歴史的伝承を「血のつながり」の記憶に組み入れることで、己の実存を正当化しようと試みている。二人の精神的形態は見事に対蹠的な関係を有している。彼らの態度は「系譜」に対する拒絶と捏造として鏡像的な対称性を形作っているが、何れにせよ彼らは共通して「系譜」の真実性に対する忠実な姿勢を備えていない。秋幸は龍造の捏造した「系譜」を嘲笑し、龍造は秋幸に向かって「わしの子じゃ」と明瞭に宣告する。

 このように考えてみると、中上健次が「岬」から「枯木灘」を経て「地の果て 至上の時」に至る紀州神話の三部作で一貫して問い続けたのは「系譜とは何か」という主題であったのではないかと思われてくる。そこには無論、作者自身の個人史における「系譜」の問題も関わっていただろうし、被差別部落というものが何故生み出されたのかという歴史的な「系譜」への探究心も介在していただろう。その「系譜」への関心が「私は何故このように生きなければならないのか」という宿命的な被投性への疑問符によって培われた可能性は決して小さくない。中上健次の文業に普遍性が備わっているとすれば、それは「系譜」に対する人間の普遍的な関心によって育まれたものなのだと言い得る。

 秋幸は己の錯雑した「系譜」を否定し、血腥い「系譜」の重力から逃れようと足掻く。一方の龍造は、歴史的な伝承を己の「系譜」に接続し、縫合することによって、己の実存に首尾一貫した体系性のようなものを与えようと試みる。これら二つの鏡像的な潮流が、徐々に接近して混淆の予兆に顫え始める。秋幸がさと子との「近親相姦」の秘密を告白することで実父に痛撃を加えようと企てたのは、それが龍造の信じる正統的な「系譜」への冒瀆であり、侮辱であり、叛逆であると考えたからではないか。

 いや秋幸は、心のどこかに男にむかって言っている声があるのを知った。おまえがおれをつくった性器と同じおれの性器で、おれはおまえを犯した。生涯にわたっておれがおまえの苦の種でありつづけてやる。(『枯木灘河出文庫 p.149)

 この猛烈で混濁した呪詛の独白は、浜村龍造が信奉する「系譜」の正統的な秩序への悪意に満ちた叛逆の響きを伴っている。秋幸は妹を犯し、弟を殺すことで、実父がその頂点に君臨する「系譜」の秩序を瓦解させようとする。彼の敵意は、浜村龍造の司る「系譜」への抑え難い憎悪に基づいているのだ。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)