サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「労働」と「放蕩」の二元論(中上健次をめぐって) 2

 引き続き、中上健次の「枯木灘」と「地の果て 至上の時」に就いて試論を書き綴りたい。

②「枯木灘」の世界を支配する「愛慾」と「淫蕩」の原理

 前回の記事で、私は「枯木灘」の世界において、繰り返し描写される竹原秋幸の「労働」に附与された「神話的な性質」に就いて論じた。同時に物語の進展に伴って、そのような神話的性質の呪術的な効用が徐々に限界へ近付いていく過程に就いても述べた。その「限界」は具体的には、実父であり「蠅の王」と蔑視される(その蔑視には同時に畏怖の念も籠められているだろう)浜村龍造の登場と接近によって齎される。

 秋幸は日に染まり、汗をかき、つるはしをふるいながら、耳に蟬の声を聴いた。幾重にも声がひびきあう蟬の声に、草も木も土も共鳴した。それが自分のがらんどうの体にひびくのを知った。秋幸にはその体の中に響く蟬の声が、なむあみだぶつともなむみょうほうれんげきょともきこえた。フサや美恵から子供の頃きいたように、土方をやり土を掘り起こしながら、いつの日か熊野の山奥に入り込んで修行し、足首を木にひっかけてついに崖からぶら下り、白骨になっても経を唱えつづけていた者に似ている気がした。大きな体だった。日に染まりたい、と思った。そして、ふと、秋幸はさと子の事を思った。それは姉の美恵が、実弘の兄の古市を実弘の妹光子の夫安男が刺し殺すという事件で、心労と過労のため狂った頃だった。その女は駅裏新地で娼婦まがいのことをやっていた。秋幸は二十四歳、兄の郁男が死んだ年齢になっていた。その女が、キノエの娘らしいとは思っていた。キノエの娘とは、秋幸の腹違いの妹のことでもあった。だが、確かではなかった。秋幸はその女に魅かれ、その女を買った。寝た。それから半年ばかりたって或る時、平常にもどった美恵が、駅裏の新地で店を持っているモン姐さんにきき込み、秋幸の腹違いの妹をみつけたと連れて来た。(『枯木灘河出文庫 pp.121-122)

 秋幸は絶えず「日に染まりたい」という欲望に囚われている。その欲望は決まって、彼が自分の血筋に纏わる錯雑した因縁の泥濘を想起し、それによって内面的な苦悩や葛藤を強いられるときに劇しく亢進する。「日に染まりたい」という欲望は、己の存在をあらゆる社会的な関係性から断ち切って純化したいという欲望の隠喩的な表現である。だが、幾ら「労働」の呪術的な効用に頼ろうとしても、彼の生物学的な系譜の中に降り積もり、蓄積した夥しい「因縁」の濃密な重量を、その呪いによって振り払うことは出来そうもない。それは秋幸自身が明瞭に理解し、知悉しているだろう。

 涙をふいたさと子が「兄ちゃん、きょうだい心中でもしよか」とぽつんと言った。

「あほを言え」秋幸は答えた。きょうだい心中とは町中のそこかしこで盆踊りに唄われる音頭だった。兄が二十で妹が十九、という歌い出しだった。兄が妹に恋をし、病の床につき、せめて一夜でも想いを遂げさせてくれと頼む。きょうだいではないかと妹は兄をたしなめるが、兄はきかない。妹は一計を案じた。自分には好きな男がいる、それは虚無僧の姿でいる、それを殺してくれるなら、と言う。兄は夜、その虚無僧を斬る。悲鳴をきき、それが妹であったことを兄は知った。兄は、自分で死んだ。

 秋幸は汗でまみれ日の熱にあぶられた自分の体のどこにその秘密が隠れているのだろうかと思った。眼にか、それとも胸の中にか、性器の中か。秋幸はつるはしをふるった。つるはしは今、腕の一部だった。つるはしで土はめくれた。土を掘るのはそこに家が点在する村から国道に通じるまでの道にコンクリート側溝を造るためだった。雨の日、山からの水が道路にたまり、穴ぼこが出来る。その水を溝に流すためだったが、秋幸は単につるはしを土にふりおろす掘り方が好きだった。日は秋幸を風景の中の、動く一本の木と同じように染めた。風は秋幸を草のように嬲った。秋幸は土方をやりながら、自分が考えることも知ることもない、見ることも口をきくことも音楽を聴くこともないものになるのがわかった。いま、つるはしにすぎなかった。土の肉の中に硬いつるはしはくい込み、ひき起こし、またくい込む。なにもかもが愛しかった。秋幸は秋幸ではなく、空、空にある日、日を受けた山々、点在する家々、光を受けた葉、土、石、それら秋幸の周りにある風景のひとつひとつへの愛しさが自分なのだった。秋幸はそれらのひとつひとつだった。土方をやっている秋幸には日に染まった風景は音楽に似ていた。さっきまで意味ありげになむあみだぶつともなむみょうほうれんげきょとも聴こえていた蟬の声さえ、いま山の呼吸する音だった。(『枯木灘河出文庫 pp.122-123)

 自分の存在を純然たる「物質」へ還元してしまいたいというマゾヒズム的な欲望と、そのような自閉的願望を許容しない彼の内なる「血」の問題が、ここでは切迫した息遣いと脈拍を伴って殆ど一枚の絵画のように重ね合わされている。彼の内なる矛盾と葛藤は徐々に高まり、それは今にも堰を切って氾濫しかねないほどの強度にまで接近しつつある。言い換えれば、秋幸は「労働」の呪術的な効用に頼って「血」の錯雑した絡まりを扼殺することの不可能性を悟りつつある。彼は浜村龍造の誘いに乗り、さと子との「近親相姦」の秘密を打ち明けようと考える。それは何故なのか? 浜村龍造に「近親相姦」の秘密を打ち明け、所謂「きょうだい心中」の背徳的な旋律を思い知らせることで、一体如何なる種類の利得が秋幸に齎されるのか? それは「血」の因縁から遁走し、純然たる物質的な存在として「自己」を定義することで、錯雑した因縁による窒息を回避すべく努めてきた秋幸自身の従前の生活を、自らの手で破壊することに通じるのではないか?

 秋幸はその男の顔を見ていた。この男が、二十三年前、「アキユキ」と共同井戸のそばで呼んだのだった。それから男にも、秋幸にも、さと子にも二十三年の時間は流れた。路地や〝別荘〟のそばの家々での噂に、この男の話が出てこない時はなかった。男の二十三年間は路地のフサの家から高台の家に駆けのぼった時間だった。男はいまここにあった。男は五十三歳だった。黒い冬物の生地のような長袖シャツをつけていた。だが乗馬ズボンではなかった。男は顔をあげ、秋幸を見た。一重の眼が秋幸に似ていた。秋幸は男が自分を見ているのを知りながら、男の眼の他に自分を見ているものがあるのを感じた。のぞかれている。噂がまた路地の家々を伝う。秋幸が男の眼に見つめられ、思い出したその噂もそうだった。誰がそれをのぞいていたわけでも、見たわけでもなかった。郁男が「きょうだい心中」のように美恵に恋し、美恵はそれを拒んで実弘と駆け落ちした。根も葉もない噂ではあったが、秋幸には、根のようなもの、葉のようなものが分かった。(『枯木灘河出文庫 p.147)

 それを「色事」と呼んでも「肉慾」と呼んでも構わないが、徹頭徹尾「枯木灘」の世界は、男女の交情の営みが動かす「原理」によって覆われている。「生殖」の原理と言い換えてもいい。「枯木灘」の世界を包囲し、その隅々にまで浸潤している度し難い「愛慾」の有無を言わさぬ影響力に、秋幸は恐らく息苦しさを覚え、愛慾が齎す錯雑した因縁の絡まりに嫌悪を懐いている。それが彼を「労働」の神話的な性質へ依存させ、物質的で無機的な存在へ己を擬することへの形而上学的な欲望を煽動するのである。

 「枯木灘」における事件や悲劇の悉くは常に「愛慾」と「血縁」によって駆動されている。そこには抽象的で透明な関係性、都会的な孤独の旋律は微塵も存在しない。近代的な「家族」の典型的な幸福さえ、余りに目紛しく移り変わる愛慾の不安定な関係性によって覆され、踏み躙られている。「枯木灘」においては、愛慾が総ての人間的な関係を根源から規定し、支配しているように見える。言い換えれば、秋幸が「労働」の神話的な性質に固執する背景には、労働の規律だけが、愛慾の堪え難い「淫蕩な性格」に抵抗する為の基盤として役立ち得ると考えたからではないのか。彼にとって「労働」は男女関係の淫蕩な暗がりを斥ける為の唯一の健全で堅実な「希望」だったのではないか?

 さと子はコップを音させて置き、秋幸の腕をついた。「黙っとらんとあんたも何か言うてよ」と言った。さと子は秋幸の顔を見た。涙が眼にみるみるあふれた。

「あんたもこいつの子やろ?」

「どうか分からん」秋幸は言った。動悸がした。

「わしの子じゃ」男はどなるように言った。「二人共わしの子じゃ」

 その時、秋幸は随分昔からその言葉を聴きたいと待っていた気がした。あのアキユキと呼ばれた時からだった。秋幸は男を見つめた。男はいた。男はまっすぐ秋幸を見つめ返した。その眼が不快だった。蛇のような眼だった。三歳ではない、秋幸は二十六歳だった。喉元に言葉が這い上ってきた。確かにおまえの子だ、おまえからこの胸も眼も歯も性器も半分ほどもらった、だがその半分が嫌だ。男は町で秋幸を見ていた。それは秋幸を見ているのではない。半分ほどの自分を見ているのだ。秋幸は男を消してしまいたかった。男を殴りつけたかった。さと子のように酒に酔っているなら、男を、膳をとび越えて殴りつけたかもしれなかった。(『枯木灘河出文庫 p.148)

 この一節から屈折した父性愛の観念を読み取るのは早計であるように思う。重要なのは、秋幸が自らの体内を駆け巡る「血」を嫌悪するのみならず、浜村龍造が秋幸の中に「半分ほどの自分を見ている」ことに対しても劇しい不快を覚えている点だ。言い換えれば、彼は父親に子供として見られる事実に憤懣を禁じ得ない。何故なら、それは秋幸を独立した個人として、あらゆる社会的な関係性から解除された状態で取り扱う「労働」の原理から切り離してしまうからである。龍造の眼差しは、有無を言わさず秋幸の存在を「愛慾」の世界へ引き摺り込み、強制的に包摂する。秋幸は純然たる自己、血統の問題から切り離された純然たる自己を、龍造の眼差しによって腐蝕されるのである。それは秋幸が「労働」を通じて奪還し、恢復しようとしていた希望への残酷な痛撃である。

 だがこの期に及んで猶、秋幸は単に「労働」の神話的な性質だけに縋るのではない。彼は龍造が象徴する「愛慾」と「淫蕩」の原理へ一矢を報いる為に、さと子との情事の秘密を告白する。無論、それが単なる報復とは称し難い両義性を孕んでいることも、否み難い事実である。

 男は秋幸を見た。

「知っとる」男は言った。「しょうないわい」男はこころもち怒ったような声で言った。

 涙が流れた。秋幸は涙をぬぐった。

 何故涙が流れ出てくるのか秋幸にはわからなかった。一切合財、しゃべってしまいたかった。

「さと子と二人で寝た」秋幸はそう言い直した。言ってからも秋幸の中に、しゃべりたいものが渦巻いている、許しを乞いたい、と思った。許しを乞うため、畳に頭をこすりつけてもよい。いや秋幸は、心のどこかに男にむかって言っている声があるのを知った。おまえがおれをつくった性器と同じおれの性器で、おれはおまえを犯した。生涯にわたっておれがおまえの苦の種でありつづけてやる。秋幸は譫言のように、「さと子と姦った」と言った。秋幸は男が苦しみのあまり呻き叫ぶのを待った。頭を壁に打ちつけて血を流し、秋幸とさと子を別々の腹に作ることになった自分の性器を引き裂き、そぎ落とすのを待った。男は二つの眼を潰す、耳をそぐ。それが父親だった。その父親として、秋幸を打ちすえ、さと子を張り倒してもよかった。(『枯木灘河出文庫 p.149)

 秋幸は「愛慾」と「淫蕩」を象徴する実父に復讐を仕掛ける。自ら淫蕩な行為に手を染めることで、父親の淫蕩な性質を排撃しようと試みる。だが、このような形式の報復が、浜村龍造という鵺のような男を、しかも極めて淫蕩な男の魂を毀損する効果を持ち得るだろうか? 或る意味では、秋幸は男を買い被っていたのである。彼は通り一遍の凡庸な「家族」の原理を、龍造が信奉していると素朴に考えたのだろうか? 彼が極めて淫蕩な男であることは、過去の履歴を確かめれば一目瞭然であるというのに?

 秋幸の目論んだ復讐の告白は、呆気ないほどに効力を示さぬまま潰える。彼の報復の失敗という事実は何を意味しているのか? 何故、彼の復讐は実父に打撃を与えなかったのか? それ以前に問うべきことは、何故、近親相姦の告白が実父に対する打撃になる筈だと秋幸が踏んだのか、という点である。近親相姦という営為に付き纏う社会的な嫌悪に、龍造が屈服するだろうと素朴に信じ込んだだけなのだろうか。

 秋幸は「複雑な血のつながり」が齎す錯雑した悲劇の数々を嫌悪しているが、それは要するに「単純な血のつながり」に対する憧憬の陰画なのではないか? 彼は素朴な「家庭」の原理に対する信仰を懐いているのではないか? だからこそ、そのような「家族」の近代的原理を蹂躙するように次々と女を孕ませた実父の所業が、忌まわしく思われたのであろうし、腹違いの妹との性交という禁忌への罪悪の観念を信じて疑わなかったのではないだろうか?

 ふと秋幸は、その昔、秀雄を水に溺れさせた後、男に呼びとめられた時を思い出した。その時も蟬が鳴き交っていた。男は秋幸を見ていた。だが何も言わなかった。秋幸をとがめはしなかった。さと子と秋幸の事を知ってもそうだった。秋幸は顔をあげ、子供らが三人で裸になり水遊びする青く光る渓流を見ながら、人にしゃべるべき秘密、さと子との秘密は、さと子を抱いた、自分の腹違いの妹と性交した、そんなことではない、と思った。その女は美恵のようだった。それが秘密だ、と秋幸は思った。その新地の女は、秋幸のはじめての女だった。二十四のそれまで秋幸は女を知らなかった。それは姉の美恵が禁じた。繁蔵との逢い引きでフサが行商からの帰りが遅い日、美恵は秋幸を添寝して寝かしつけた。朝、秋幸は美恵の布団で寝ていた時もあった。起きた秋幸を見て、「兄やんみたい」と美恵は言った。小便がたまって秋幸の朝顔の蕾のような性器は勃起していた。「見せて、見せて」と三女の君子が言った。秋幸はへらへら笑い、性器を見せた。「一人前に」と美恵がわらうと君子も「一人前に」と秋幸をつついた。それから郁男が死んだ。郁男と美恵の噂は知っていた。自分の勃起する性器をそぎ取ってしまいたい、と思いながら自瀆し、その自瀆を禁じていると夢精した。その女が、弦叔父が持ってきた噂のように腹違いの妹でもそうでなくともよかった。女であり、腹違いの、父親の血でつながった妹であり、種違いの、母親の血でつながった姉であるその女を犯した。尻を振りたてた。乳房をつかんだ。だがあの男は怒りもしなかった。秋幸の体にひびく蟬のようにわらった。いや、今、秋幸の耳に、その蟬の声は幾重にも入りまじった嘆き泣く声に聴こえた。苦しかった。立ったまま蟬の声に呼吸をすることさえ苦痛になった。誰にでもよい、何にでもいい、許しを乞いたい。(『枯木灘河出文庫 pp.151-152)

 どうやら話はそれほど単純な造作ではないようだ。秋幸の内部には性的なものに対する嫌悪と、それを裏切るように迫り上がる性的なものへの欲望の双方が同時に共存している。だが、少なくとも秋幸の内部では、性的なものへの抑圧が支配的であり、それが彼の「労働」に対する特権的な依存と没入にも関連しているように見える。その禁圧を(姉から科せられた禁則を)食い破り、己の欲望に屈服したことを、秋幸は明瞭に「罪悪」として捉えている。それは一般論としての「近親相姦」に対する禁圧に基づく罪悪の意識ではない。実際、秋幸は「その女が、弦叔父が持ってきた噂のように腹違いの妹でもそうでなくともよかった」と考えているのである。血縁の有無は主要な問題でも論点でもない。重要なのは「女を犯した」という単純な事実そのものであり、その事実に対する罪悪の観念である。性欲を罪悪と結び付ける秋幸の潔癖な道徳性は、何に由来しているのか?

 例えば郁男の自殺の理由は、作中では明示されていない。その悲劇に関する記憶は繰り返し言及されるが、何が真実であるかを、秋幸の立場から見極めることは不可能に等しい。だが、性的な問題が数多の悲劇を生み出す種となったことは客観的な事実である。美恵と郁男との「きょうだい心中」を彷彿とさせる噂、或いは浜村龍造の噂、様々な方面へ「血脈」で通じている性的な人間関係の噂、それらの苦しみの総てが煎じ詰めれば「勃起する性器」に淵源している。性的な行為が数多の悲劇を生み出すという認識、それは「路地」の閉鎖的な共同体においては、決して大袈裟な妄言ではない。

 海は、秋幸をつつんだ。秋幸は沖に向かった。波が来て、秋幸はその波を口をあけて飲んだ。海の塩が喉から胃の中に入り、自分が塩と撥ねる光の海そのものに溶ける気がした。空からおちてくる日は透明だった。浄めたかった。自分がすべての種子とは関係なく、また自分も種子をつくりたくない。なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい。透明な日のように在りたかった。それは土方をしている時と一緒だった。沖に向かいながら、泳ぐ自分の呼吸の音をきき、そのままそうやって泳ぎつづけていると、自分が呼吸にすぎなくなり、そのうち呼吸ですらも海に溶けるはずだった。(『枯木灘河出文庫 p.163)

 「性慾」は否が応でも他者との錯雑した関係性を生成し、不可避的に悲劇の「種子」を孕んでしまう。秋幸にとって「労働」は、そのような性的領域に対する抑圧の為の身振りであり、儀式である。だが、この道徳的な意識は結局のところ「他者性」の否認に過ぎないのではないか。「なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい」という欲望を、道徳的なものとして肯定するのは短絡的な考えである。若しも、そのような遁走の欲望が具体的な成果に結び付き得るのならば、そもそも「枯木灘」という小説が書かれる必然性は生じなかっただろう。「なにもかもと切れて、いまここに海のように在りたい」という欲望の道徳的な性質は、要するに「世界」との融合を果たすことで自他の境界線を踏み躙り、無効化しようとする欲望のアモラルな性質の反映に過ぎない。それが「枯木灘」という作品の要諦であるならば、作者は「枯木灘」を小説として仕立てるのではなく、抒情詩として歌い上げるべきであった筈だ。無論、作者は抒情詩を踏み躙る為に「枯木灘」を書いたのである。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)