サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三島由紀夫「沈める滝」に関する覚書 2

 前回に引き続き、三島由紀夫の『沈める滝』(新潮文庫)に就いての感想を書く。

②「快楽」という意味に包摂されない女体

 数多の女と関係を持ちながら、絶えず相手の背負っている「現実的属性」との錯雑した交流を注意深く拒み、自らを「無名の任意の人間」として擬装してみせることに技術的な熟達を有する城所昇は、菊池顕子という不感症の女性と運命的な遭遇を果たす。それだけならば、この「沈める滝」という小説は、漁色家の青年の倫理的な「回生」の物語として要約され得る凡庸な代物に仕上がったかも知れない。だが、三島の屈折した文学的野心は、そのような「家族愛」の近代的ファンダメンタリズムへの無防備な屈服を断じて容認しないばかりか、人工的なまでに態とらしい仕掛けを弄することで、昇と顕子の関係を酷薄な不幸と惨劇へ陥れる。

 しかし顕子はちがっていた。目をつぶって横たわり、小ゆるぎもしなかった。完全な物体になり、深い物質的世界に沈んでしまった。

 焦慮するのは昇のほうであった。彼は墓石を動かそうと努めて、汗をかいた。彼がこれほど純粋な即物的関心に憑かれたことはなかった。よくわかることは、顕子が自分の無感動をあざむこうとしていないことである。彼女は絶望に忠実であり、すぐさま自分を埋めてしまう沙漠に忠実である。この空白な世界に直面して、自分が愛そうと望んだ男を無限の遠くに見ながら、顕子は恐怖も知らぬげに見えた。生きている肉体が、絶望の中にひたっている姿の、これほどの平静さが昇を感動させた。(『沈める滝』新潮文庫 pp.40-41)

 自分が抱いている女の性的な無感動の状態に感動を覚えるという心理的な機制は決して一般的な現象ではないだろう。往々にして男は、相手の無感動を己の官能的な魅力、或いは性的な技術の欠乏として捉え、気鬱を抱え込むものである。それは男から性的な愉楽への切迫した動機を奪い去る。だが、昇は相手が如何なる性的愉悦とも無縁の状態でいることに、凡百の男たちとは異質な意義を読み取るのである。

 このままを抱かなければならない。そう思った彼は、別のやさしさで女を抱いた。

 そのとき昇に、異様な力で、彼の幼年時代が還って来た。再び石と鉄の玩具が与えられたのである。祖父が拾ってきた河底の石や、鉄の組立玩具や、発電機の模型は、彼の両腕の中いっぱいにあった。それらのものを胸に抱きかかえて、昇は腕の強さを自慢した。ああいう玩具の冷たさ、固さ、感情を持たない機械の忠実な動き、子供の指に抵抗を与える重さ、ああいうものは何と好もしかったろう! 石は決して子供におもねらず、堅固な石の世界に住まっていた。鉄は子供の指の力を冷酷に嘲笑し、決して壊れない玩具が彼を囲んでいた。友だちはしょっちゅう玩具を壊していた。昇は分解したり組立てたりすることはできるが、決して自分の玩具を壊すことができなかった。玩具たちは彼の所有物でありながら、彼に属してはいなかった。そういう堅固な別の世界に属するもので、自分の欲しいものを組立てて遊ぶことは、昇の大きな喜びであった。……

 こんなわけで昇は今、女の形をした石像を、記憶のもっとも深いところから生れる親しみを以て抱いていた。彼が愛しているのは絹の優雅や柔軟さではなかった。それは石、明快な物質だったのである。(『沈める滝』新潮文庫 pp.41-42)

  性的な愉悦を覚えない女体を「石像」に譬える三島の筆致に、女性に対する抑圧された憎悪と敵意を見出すのは不当な見解であろうか。少なくとも三島は、不感症の女性が真実の愛に触発されて性的な愉悦を恢復するという、如何にも近代的な異性愛の神話を一向に尊重していない。寧ろ三島は、そのような顕子の変貌を、顕子自身の絶望的な不幸の端緒として設定するという悪辣な筋書きを仕組むことで、近代的な異性愛の神話に冷笑的な鉄鎚を叩きつけているのである。

 昇は顕子の不感症の肉体を「記憶のもっとも深いところから生れる親しみを以て」優しく慈しむ。それは昇が顕子という女性を殊更に愛していたからではなく、彼女の肉体が如何なる愛情とも無縁の即物的な個体として存在している事実に驚いた為の成り行きである。顕子の肉体が如何なる快楽とも無縁であるという現実は、昇の即物的関心を最も純粋な意味で満足させる。いや、こういう言い方は適当ではない。昇にとって顕子という女性が凡百の異性から隔たった特権的な意味を担うのは、彼女の存在を自分の同類であるかのように錯覚した為なのである。

『俺は生活を変えることができる』と昇は確信に充ちて思った。『顕子は俺に訓誡を垂れた。虚無の只中にこんなに自若として横たわること、それがこの女に出来て、俺には今まで出来なかった。石と鉄の世界にかえろう。俺のいちばん身近な、いちばん親しいものに没頭しよう』

 彼は蘇った人のように、床に起き上って下着をつけた。(『沈める滝』新潮文庫 pp.43-44)

 無論、顕子は決して昇の同類ではない。顕子は「石と鉄の世界」から逃れようとして常に失敗し、その絶望の過剰な深甚さに縛られて、止むを得ず「石像」としての自己を受け容れているに過ぎない。だが、昇は顕子のそのような実存の様態に特権的な意義を読み込む。無論、これは昇の側の勝手な都合であり、彼が顕子に対して読み込む特権的な意義の内実は、顕子の側から眺めれば少しも受け容れられるものではないだろう。昇の感動は、女性の肉体に対する即物的関心の極限まで純化された様態である。従ってそれは、顕子が本来希求しているような「愛情」と「快楽」のアマルガムの実現とは正面から対立するものなのだ。この不幸な擦れ違いは最終的に顕子を自死へ追い込む。真実の愛によって肉体的な愉悦に覚醒したと信じる顕子の幸福且つ哀切な幻想は、決して「愛情」と「性慾」を混同しない昇の冷酷な感受性によって裏切られ、その反動で顕子の心は一層深まった絶望の奥底へ屍の如く投げ込まれてしまう。昇にとって「性慾」は相手に対する倫理的な愛情とは全く無関係の、自然科学的な「認識慾」に過ぎず、従って「愛情」と密接に結び付いた女体の一般的な快楽は本来、彼の関心の埒外に位置している。彼が求める女体は「愛情=快楽」の複合的な観念から逸脱したものであることが望ましい。それを理解出来ずに「愛情=快楽」の複合的観念へ果てしなく傾斜していく顕子の悲劇に、作者は極めて冷淡な態度を堅持するのである。

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)