サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「労働」と「放蕩」の二元論(中上健次をめぐって) 4

 引き続き、中上健次に就いて書く。

④「系譜」に対する霊媒的な受動性と、その悲劇的性格

 中上健次の作り出した竹原秋幸という主人公は、自分の存在を取り囲む血の「系譜」に対して根源的な拒絶の姿勢を示している。それは根源的には実父との血の繋がりに対する内在的な拒絶に基づいているが、にも拘わらず、彼は物語のあらゆる場面において、己の「系譜」に関する多様な記憶を想起することを止めようとしない。この矛盾した両義性は、彼が本質的な次元において、血の「系譜」に抗い得ない存在であることを暗示していると言える。彼の内部には、夥しい系譜的な記憶に対抗し続けるために必要な、主体的な原理のようなものが欠如しているように見える。

 もしも彼に主体的な原理が内包されており、それが「複雑な血のつながり」に対する明確な抵抗と峻拒の意志として鍛造されているならば、少なくとも故郷の土地に留まり続ける理由はない。故郷を捨て、地縁と血縁を放擲して、見知らぬ土地に移って新たな人生を開拓することも充分に可能なほど、彼には漲るような若さが備わっている。門地の違いに基づいた厄介な束縛と制約を断ち切り、恋人である紀子と異郷へ駆け落ちすることも物理的には不可能ではないのだ。にも拘わらず、秋幸はそういう具体的な実行と主体的な決断を選択する素振りも見せない。これは彼の「系譜」に対する根深い嫌悪とは矛盾する振る舞いではなかろうか?

 だが私たち読者が、彼の主体性の欠如を非難したところで益はない。重要なのは、物語に対する視角を転換してみることだ。秋幸は単に主体的な行動力を欠いた人物なのではない。寧ろ作者である中上健次にとっては、これらの複雑な物語の主人公が明確な主体的原理を欠いていることにこそ、大切な意義が存在しているのである。

 竹原秋幸は、いわば「霊媒」のように、他人の物語を吸い込む虚無的な領域として実存している。彼には自分自身の固有の物語が欠けている。言い換えれば、彼は様々な「複雑な血のつながり」の結節点として存在している。彼が主体的な行動や決断に踏み切れないのは、彼がそもそも物語の側から、そのような実存の虚無的な様態を備えることを命じられているためである。彼は絶えず他人の物語に脅かされ、埋め尽くされ、その重苦しい圧力に喘ぎながら生きている。だからこそ、あらゆる「系譜」から束の間の解放を得られる「労働」の時間が特権的な意義を帯びて、光り輝くような強調を享けるのである。

 その意味では、秋幸の実父に対する様々な抵抗が絶えず所期の目的を達せずに、標的からの不本意な逸脱を示すのも当然の帰結である。彼には、他人の物語を拒絶するために必要な原理的足場が欠落している。寧ろ彼の衝動的な行為の数々は、益々「複雑な血のつながり」を肥大させる結果しか生み出さない。秋幸の実存は、物語を破壊するどころか、物語の複雑な膨張に著しく寄与しているのである。この不本意な捩れは「地の果て 至上の時」において、彼が敵視している筈の父親の信じる架空の来歴に対する奇怪な共鳴にまで発展してしまう。

 果たして秋幸が抱懐している実父への敵愾心は本当に「殺意」のような明確な情念と結びついているのだろうか?   この点に関しては大いに疑問が残る。彼が実父を憎んでいることは明瞭な事実であると言い得るだろうが、それは純然たる「殺意」と呼べるほど、堅固な輪郭を有していない。もしも、その敵愾心が堅固な輪郭を備えていたとするならば、それは妹との性交や弟の撲殺といった形で、不明瞭な逸脱を遂げることはなかっただろう。彼の復讐心は、実父の殺戮という明瞭な主体的行為には必ずしも帰結しない。

 秋幸は血縁に象徴される歴史的な「系譜」から逃れる意志を持たない。逃れたいという願望が繰り返し強調されるにも拘わらず、彼が具体的な行動を起こさず、寧ろ引き寄せられるように実父との面会に赴くのも、彼の主体的な意志の欠如、或いは機能不全を傍証している。寧ろ秋幸は、浜村龍造の捏造した架空の「系譜」に魅せられているようにさえ感じられる。この奇怪な受動性、霊媒的な受動性は、実父の殺害という明瞭な計画を組み立て、決行に移すような力を欠いている。彼はあらゆる他人の物語の吹き溜まりであり、様々な「系譜」の累積する特異な領域として存在している。彼は常に何らかの衝動によって、何らかの外在的な力に強いられるようにして、自らの行動を決定することしか出来ないのだ。

 彼の根源的な主体性の欠如、彼が様々に絡み合った感情の内部で身動きが取れないこと、その感情が明確な志向性を欠いていること、彼が常に「他人の物語」に蝕まれて窒息しかかっていること、これらの特徴は何を意味するのか。彼の根源的な「迎合性」は如何なる理由で構築されたのか。

 言い換えれば、竹原秋幸という存在は、物語の主人公であるというよりも、様々な物語を通過させる為の触媒=霊媒に過ぎず、従って彼は物語を牽引するような主体的な位置に決して立脚することがないのである。この傾向は「地の果て 至上の時」において益々強調され、露わになる。秋幸は「枯木灘」の頃のように熱心な「労働」の反復を行なわず、他人の都合に引き摺られて直ぐに仕事を「若い衆」に任せて現場を立ち去ってしまう。そして様々な「他人の物語」に関与し、その記憶と経験を受け容れ、己の内面に蓄積していく。

 そうであるならば、中上健次の書き遺した紀州神話の数々を、竹原秋幸の物語として解釈するのは本質的な謬見であるということになる。少なくとも秋幸の実存や精神を基軸に据えて物語を眺めても、そこに綜合的な視野を樹立することは困難である。彼は様々な物語が行き交う交差点のような存在であり、私たちはそこから決して折り合うことのない様々な「物語」の衝突と分裂を眺めるしかない。

 「枯木灘」において、秋幸は母親のフサや姉の美恵が称讃するような、範例的な生き方を演じている。その内面には複雑な屈折が畳み込まれているとしても、彼の勤勉で浮薄なところのない堅実な生き方は、母や姉たちの希求する生き方に合致しているように見える。秋幸が異性と肉体的な関係を持つことを、姉の美恵から禁じられていたという記述には、秋幸の根源的な迎合性が看取される。彼は背徳的な異性関係を持たず、黙って地道な労働に明け暮れている。その禁欲的な生活態度は、母や姉たちを安心させる。

 だが、そのようなストイシズムが、秋幸自身の主体的な決断によって構築されたものであると言い切ることは難しい。そもそも、彼にとって「労働」は「自然との融合」の歓喜を味わい、厄介な「血のつながり」を忘却する為の個人的な儀式のようなものである。彼の勤勉な態度の根底には、己の内なる野生を扼殺する為の手続きが潜んでいる。それは果たして、彼の主体性の顕現であると言えるだろうか? 寧ろ主体性の欠如が、彼を勤勉な「労働」の反復という生活の範例へ逃げ込ませているのではないか。

 彼にとって「労働」は一種の逃避であり、複雑に絡み合った社会的な関係性、もっと有体に言えば「他人」との関係からの遁走である。つまり、それは自閉的な営為なのだ。そして、その自閉性は結果的に、勤勉な労働者という禁欲的な善良さの範例を形作る根拠となっている。その禁欲的な善良さを、彼の母や姉たちは素晴らしいものとして肯定的に評価している。自閉的な労働に深く没入することで、秋幸の内なる野生は制限され、血腥い悲劇は回避される。だが、結局のところ、それは他者を排除することで得られる擬似的な幸福と安逸に過ぎず、母や姉たちの抱え込んでいる平穏な家庭的ストイシズムへの欺瞞的な盲従ではないのか?

 労働の自閉性と規律、それが秋幸を一つの安全な生き物に、いわば善良な息子のような存在として雁字搦めに定義している。その定義は確かに、彼の内側を流れ、渦巻いている剣呑な「血」の暴発を予防し、抑制する道徳的な矯正の効果を含んでいるだろう。労働の励行は、母と姉にとっても望ましく、堅実な未来を形作る基盤となるのである。

 だが、性的な観念、或いは欲望、感情が芽生えたとき、労働の自閉的な安逸に耽溺していた秋幸の人生は根本的な変更を加えられる。淫蕩という表現は過剰かも知れないが、少なくとも秋幸に関して言えば、彼の性的な遍歴は、腹違いの妹との情事という形で幕を開けるのである。そもそもの出発の時点で、秋幸の性的な欲望は陰惨な罪悪の翳りによって縁取られている。彼はそのとき、今まで堅実で勤勉な労働者としての自己定義を実践することによって守り抜いてきた清廉な自我を失い、抑え込んでいた「あの男の血」の滾りを実感する。彼が自閉的な労働に励むことで慎重に遠ざけてきた「複雑な血のつながり」が、そして浜村龍造という悪党の血の影響が、愈々抜き差しならない現実性を帯びて肉迫を開始するのである。

 「枯木灘」の悲劇性は、秋幸が「血」の齎す呪縛に搦め捕られ、敗北し、暴発してしまうことによって喚起される。しかも、彼はまるで自分の意志ではなく、何らかの外在的な因縁の持つ圧力に引き摺られ、導かれるようにして、その悲劇的な災厄に荷担する。彼の受動性は、彼の物語の暴力的な悲劇性の感触を高めることに大きく貢献している。彼が若しも主体的な意志に基づいて明確な行動の軌跡を描き、呪わしい実父の殺害を成功させていたならば、きっと「枯木灘」は悲劇ではなく、爽快な英雄譚として完結していただろう。だが「枯木灘」に、そのような道徳的ヒロイズムの単純な反映を見出すことは出来ない。彼は何かに強いられるように、何かに引き摺られるようにして妹と交わり、弟を殴り殺す。悲劇の主役には、主体的な意志や明確な行動力が備わっていてはならない。少なくとも運命を覆す力量を天から授かってはならない。悲劇は常に、人間の主体的な意志や決断の「蹂躙」という形式に則って、その物語の構造を設定するものである。

 男の呻きが聴こえる。秋幸は徹に肩をつかまれたままズボンをさぐった。車の鍵を取り出した。息が荒く、男でなく自分が、痛みを耐える獣のように呻き声を出しているのに気づいた。「殺して、何が悪りんじゃ」もう一度、秋幸は自分に言いきかせるように、しゃがれ声で言った。血が、手にこびりついている。「あいつが悪りんじゃ、あいつがおれに構うさかじゃ」秋幸は手をズボンの尻に強くこすりつけ、また坂の闇にかざしてみた。汚れはとれなかった。秋幸は車の鍵をその手に持ったまま、どこへ逃げるのか迷った。海と山と川にはさまれたこの土地に生まれ、育ち、秋幸は他に行くところを知らなかった。日を受け、風を呼吸して二十六の時まで暮らしたのだった。フサも、その男もここにいた。その男は、いま何が起こったのか知っただろうか? 男にはっきりと教えてやりたかった。その男の子供を、その男の別の腹の息子が殺した。その男の遠つ祖、浜村孫一の血の者が、浜村孫一の血の者を殺した。すべてはその男の性器から出た凶いだった。いや、山を這うように跛を引きながら、光の方へ、海の方へと流れ落ちてきた架空の、熱病の浜村孫一の性器が、何百年も経った今、血を血が打ち殺す凶事をつくった。

 体はまだ震えていた。秋幸はドアをあけ、一人車に乗った。(『枯木灘河出文庫 p.261)

  或いは、このように規定してみるのはどうだろうか。「枯木灘」の世界においては、総ての出来事が過去の錯雑した「系譜」との関係性に基づいて解釈され、語られ、演じられるのだと。どんな悲劇的な出来事も、必ずそれは過去の悲劇の再燃として位置付けられる。秋幸の秀雄に対する殺意は、郁男の秋幸に対する殺意と重ね合わされ、美恵と郁男の性的な風評は、盆踊りに唄われる「きょうだい心中」の古伝と重ね合わされる。どんな出来事も過去の反復として現れ、過去の出来事の生み出したものとして、記憶と絡まりながら演じられる。総てが「系譜」の中の物語として回収され、現実は歴史に還元され、誰もその根源的な閉域から脱出する術を持たない。「枯木灘」の世界は徹頭徹尾、閉鎖されている。それは地理的な条件によって外界から隔絶した環境として、空間的に閉塞しているのみならず、あらゆる出来事が過去の事象の暗喩として位置付けられる循環的な歴史性によって、時間的にも閉塞している。浜村孫一の末裔という龍造の捏造した経歴の欺瞞は大した問題ではない。重要なのは、龍造が己の社会的地位の正当性を確立する為に選んだ手段が「系譜」の改竄であり編輯であるという点だ。総てが過去の因縁と縒り合わされて解釈され、理解され、伝達される。「枯木灘」の世界は、時間的にも空間的にも「外部」を持たない、濃縮された閉域である。そういう世界に生きる人間の喜怒哀楽の一切合財を言葉によって彫琢することが、中上健次という作家の背負った重要な文学的使命であったのかも知れない。

 閉鎖された環境に置かれた人間は、どのような実存の様態を抱え込むのか、という問題を、中上は呪術的な反復を含んだ文体で執拗に抉り出していく。但し、それは閉鎖された息苦しい世界への呪詛だけに占められた言語的旋律ではない。

 秋幸は男を見ていた。その男は、駅裏のバラックに火をつけ、その足で路地にあらわれたのだった。男は路地に火をつけようとした。火をつけて、路地を消し去ろうとした。その路地は何処から来たのか出所来歴の分からぬ男には、通りすがりに立ち寄った場所だが、秋幸には生まれ、育ったところだった。共同井戸、それは、まだあった。路地の家のことごとくは、軒下に木の鉢を置き花を植えていた。愛しかった。秋幸は川原に立ち、男を見ながら、その路地に対する愛しさが、胸いっぱいに広がるのを知った。長い事、その気持ちに気づかなかった、と秋幸は思った。竹原でも、西村でもない、まして浜村秋幸ではない、路地の秋幸だった。盆踊りが今、たけなわであるはずだった。(『枯木灘河出文庫 p.256)

 秋幸の霊媒的な受動性は、この物語の本質的な意味における「主役」が個々の登場人物の次元にあるのではなく、飽く迄も「路地」という閉域そのものであることの構造的な反映である。重要なのは「路地」という圧縮された閉域、外界との接続を絶たれた領域における実存の形式を活写することであり、その閉域を埋め尽くす様々な感情と思考の錯雑した様態を精細に描き出すことである。だが、その試みは、単に「路地」という閉域の内部における悲喜交々を描くという循環的な営為だけでは、作者に対して本質的な充足を供給しなかった。「路地」の消滅という奇怪な事態を描くことが、作者の次なる夢想に選ばれたのは、彼が「閉域」の内在的な論理を詳細に追跡する過程において、否が応でも、その「閉域」を作り出す外界の歴史的な論理に覚醒せざるを得なかった為ではないかと思われる。

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)