サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

己の善性を誇張する勿れ

 自分では如何に厳しく冷静に現実を見凝めている積りであっても、人間の主観には必ず生得的な偏倚と後天的な歪曲の二つが絡み付いているものである。純然たるリアリズムというのは理論的に想定された不可能な観念に過ぎず、実際の生身の人間は決して「純然たる現実」を直視する公正な能力を持たない。誰しも物事を自分の立場や事情に応じて任意に改変する習慣を持ち合わせているもので、その御都合主義の色眼鏡の言い訳には、世界の本質的な不可知性が暗黙裡に活用される慣わしである。言い換えれば、自分が物事を自分の利得に応じて自在に改竄することの口実に、人間に備わった本然の認識論的装置の構造的な限界を持ち出して、己の不実を彌縫する訳である。

 だが、そういう不自然な彌縫が何の為に行われるのか。往々にして、それは自分にとって都合の良い世界観を採択することで自身の人生の行路から無用の艱難を取り除くことが目的である。罪悪感や羞恥心を抑制することも重要な効用の一つであろう。私たちは自分の掲げる倫理的な正義や美徳に基づいて、己の言動を律することが出来るほど、強靭な神経の持ち主ではない。大体の場合、私たちは自分の遣りたいことや遣ってしまったことに対外的な、或いは対自的な正当性を与えて種々の軋轢や葛藤を消去する為に、後から適切な世界観を拵えて帳尻を合わすのである。

 だから、私たちの精神は標準的な設計として、己の善性を誇張する生き物に仕上がっていると考えておけば、認識と現実との半ば自動的に生成される齟齬は幾らか中和され、訂正される。自分の悪徳や罪過を正当な感情や思想の下に位置付けようとする観念的な策略は、他人から見れば薄汚い詭弁だが、本人の眼には真っ当な真実のように映じるものである。

 それでも時に人間は、他人から己の用いている都合の良い色眼鏡の甚しい偏向を指摘されて覚醒する場合がある。己の信奉する善性の欺瞞的な鍍金が剥がれる音を自らの鼓膜で聞くのである。それは人間が己の不毛な思想や認識を是正する上では実に貴重な好機なのだが、その痛烈な批判の痛みに堪えかねて崩れ落ちるのも耳を塞ぐのも、余り有意義な反応ではない。他人の批判に耳を傾ける姿勢は殊勝な態度であると賞讃されがちであるが、そういう傾向に便乗して悪辣な支配や権謀術数を目論む手合も少なくないのである。

 己の善性を誇張する傾向にある人間の本質的な性向を見凝めることは、そうした逆説的な策略、道徳や愛情の皮を被った陰湿な攻撃に抗う為の術にもなる。善人であることは、世界の本質的な善性を素朴に信じ込んで疑わぬ敬虔さの中にはない。無知な善良さは要するに悪人の手頃な獲物に過ぎず、結局は世界というものの真実が有する酷薄な威力に粉砕されることしか知らない。だが、面の皮の厚い悪人が褒められる義理もないし、悪徳に逃げ込むことで世界の真理から顔を背ける類の人間は、無知な悪徳という意味では、単に狡猾なだけの凡人に過ぎない。重要なのは総てを知悉した上で便宜的に善良な行為を選び取る器量の大きさを学ぶことであろう。本質的な意味で善人であろうと試みるならば、人間の心の泥濘や暗渠が放つ腐臭を愛さねばならず、それは単に善良な凡人には到底成し遂げられない難事である。無知な善良さは、直ぐに素朴で表面的な道徳の鎧を珍重したがるし、道徳の鎧に守ってもらわなければ直ぐに気絶してしまうほど脆弱な心胆の持ち主である。彼らは己の善性を極めて容易く誇張しながら、しかも見苦しいほど卑屈な根性を養っているのである。