サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

近親姦と死者 三島由紀夫「雛の宿」

 三島由紀夫の短篇小説「雛の宿」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 この簡素な作品には、歴然たる霊異の彩色が盛られており、官能と禍々しさの入り混じった情景の数々は、単純な怪談とも割り切れない独特の風味を備えている。女子の成長を祈念する桃の節句と、胡散臭い安手の娼館とを結び付けるのは如何にも悪趣味な結構だが、果たして彼らは本当に単なる売春の母子に過ぎないのか、読者に疑わしく想わせる微妙な匙加減が(そもそも、語り手である「僕」が情事の代価を払う描写は作中に存在しない)、不穏な気品を作品の全篇に行き渡らせている。特に「雛の宿」を秋に再訪した「僕」が、庭から硝子戸越しに雛壇と母子の姿を目撃する場面の怪異なイメージは、有り触れた自然主義的な現実を巧みに遠ざけて、読者の感性をふわりと宙に浮かせるような効果を担っている。

 若しも深入りしたら、謎めいた母子の思惑通り、この迂闊な青年は「男雛」として迎えられ、二度と俗世間へ復帰することが出来なくなるのではないかと想像させる「異界」の手触りは、近隣の住人によって与えられた「あの母子は色情狂に過ぎない」という無粋な証言にも拘らず、簡単には薄れようとしない。「僕」が一夜の契りの記憶だけを遺して立ち去って以来、この「雛の宿」の時間は無限の膠着へ陥ったようにも見受けられる。彼ら母子の存在を「色きちがい」という単純な要約で片付けてしまうのが適切なのかどうかも判然としない。

 繰り返し男を引き込んできたと証言される母子の雛祭りが、時候を過ぎても終わらずに続いているのは、語り手である「僕」が、彼ら母子によって最愛の「男雛」に相応しいと見込まれた人物であり、彼が戻らなければ「雛壇」の秩序が完成しないからではないかと推測することは可能である。彼らは切実な理由に強いられて優れた「男雛」の登場を待望している。しかし、過去に幾度も男を引き込んだと証言されていながら、継続的に「男雛」の役割を務めている人物が見当たらないことを鑑みると、彼ら母子の宿願は絶えず失敗に帰着してきたのだろう。或いは、もっと怪談めいた解釈を試みるならば、歴代の「男雛」たちの身の上を何らかの血腥い不幸が見舞ったのだと考えることも出来る。

 けれども、近所の住人の「ここ半年ほど、男の噂もきかないやね」(p.309)という証言を考慮に入れると、やはり「僕」の登場は彼ら母子にとって特別な存在であったように思われる。だからこそ「僕」が去った後も雛壇は片付けられず、母子は「その少女のかたわらに僕がいたときと同じ姿、同じ位置、同じ向きに坐っている」(p.310)のである。この記述は明らかに「雛の宿」において時間の流れが停止していることを示唆している。

 僕はずいぶん永いことそうしていた。母子は微動もしなかった。まるで木彫の彫像のようだった。そしてもし僕が声をかければ、彼らは本当の木彫の彫像に化してしまうのではないかと思われた。……(「雛の宿」『女神』新潮文庫 p.311)

 大事な「男雛」が立ち去って戻らなかった為に「雛の宿」の時間は停止し、母子は「木彫の彫像」のように身動きしなくなっている。或いは、この母子は雛人形の化身であるのかも知れない。その間接的な証左を、次のような記述の裡に読み取ることが出来るのではないか。

 僕は大そうおどろいた。二人の膳は、呆れるほど小さかったのである。

 それは誇張して云えば、灰皿ぐらいの大きさの膳で、膳部はまた、ピンセットで作ったかと思われる料理だった。お膳の上には、ちゃんと、椀もあり、御飯茶碗もあった。椀をあけると、淡紅のごく小さな麩の断片と、三四本の春雨と、みつばの一葉が浮んでいた。(「雛の宿」『女神』新潮文庫 p.303)

 雛人形の精巧な小道具を想わせる、これらの食器に関する描写は、彼ら母子が人外の存在であることを暗黙裡に物語っているように思われる。「男雛」の消滅は、彼らを再び「人形」の状態へ復帰させたのである。それは何故なのか。彼らは時間の堆積を乗り越えて「男雛」の再来を待つ為に「人形」の状態へ回帰し、いわば「不朽」の鎧を纏おうと試みたのだろうか。或いは、こうした「不動」の状態こそ、彼ら母子の本質である「人形」の様態を露顕させた姿であると単純に解釈すべきだろうか。

 しかし、若しも「僕」という「男雛」への執着がそれほど劇しいものであるならば、彼らは何故、再び巷間に踏み込んで「僕」の所在を暴き立てようとしないのか。彼ら母子は何故、頑なに揺るぎない「待機」の状態へ踏み留まり続けているのか? そのように考えると、やはり「男雛」の消滅によって「雛の宿」における時間の流れそのものが停止したと看做すのが妥当な推論であるように思われる。彼らは意図して「待機」しているのではなく、そのような「待機」の状態を不可避的に強いられているのだ。しかし、何故「男雛」の消滅が、彼ら母子の「雛祭り」を無限の停止へ陥らせるのだろうか? 語り手の「僕」自身が作中で訝ったように「どうして僕でなければいけないんだろう」(p.294)か?

 例えば次のような記述は、これらの疑問を解明するに当たって何らかの有益な手懸りを提供してくれるだろうか。

 僕はパチンコのハンドルをはねながら、横目で彼女の横顔をぬすみ見た。

『おや、死んだ妹だ』

 とその瞬間、僕は思った。

 この印象はふしぎだった。つくづく見ると、少女はそれほど妹に似ていはしなかった。眉のやや濃いところも、丸顔の頬のえくぼも(おそらくそのえくぼは、パチンコに熱中して、力を入れて口をつぐんでいるために、現われたものだった)、可愛らしい鼻も、大きな目も、これと謂って、妹と似ていたわけではない。多分妹の死んだ年齢と同年輩の少女を見ると、すぐ妹を思い出す癖が、そのころの僕についていたせいだろう。(「雛の宿」『女神』新潮文庫 p.289)

 「雛の宿」の少女と、昨夏に亡くなった妹が、必ずしも物理的な意味で類似している訳でもないのに、半ば反射的に同一視されていることは意味深長である(三島自身、十七歳で病死した妹に特別な愛情を寄せていたという)。「僕」は死んだ妹を想起させる女と、成り行きに強いられた結果であるとはいえ、官能的な一夜を過ごす。けれども、その甘美な経験にも関わらず、彼は「雛の宿」に戻らなかった。単純に解釈するならば、それは死んだ妹と重ね合わされた女性との情事が、近親姦の禁忌への抵触を暗示している為だろう。

 「たえがたい衝動」(p.308)に襲われた「僕」が「雛の宿」を再訪したとき、母子は身動きせずに無言で対座し、雛人形は半年前と変わらず煌びやかに飾られたままである。この「時間の停止」は「死」を暗示しているように思われる。雛人形が古来、嫁入道具の一つに数えられてきたことは周知の事実だろう。その雛人形が「男雛」を欠いたまま、無限の膠着の裡に閉じ込められている情景は、若くして男を知らずに亡くなった妹の不幸な境遇を比喩的に示しているように思われる。主を失って用済みとなった憐れな雛人形は、そのまま不朽の沈黙の裡に留置されるしかないのである。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫