夭折の幻想 三島由紀夫「春の雪」 1
昨秋から延々と取り組み続けている個人的な計画、即ち三島由紀夫の主要な作品を悉く読破して自分なりの感想を纏め、見知らぬ赤の他人が振り翳したり口走ったりする「三島文学」への評価から切り離された場所で、手作りの個人的な知見を築き上げるという抽象的な計画も、愈々重要な大詰めを迎えた。三島由紀夫の遺作であり、その華麗なる文学的履歴の総てを傾注して綴られた畢生の四部作「豊饒の海」に漸く辿り着いたのである。目下、第一巻の『春の雪』(新潮文庫)を読み進めている最中である。
三島由紀夫という作家の名前を私が最初に知ったのは恐らく、少年時代に父母が同じ団地に暮らす知人から無償で譲り受けた新潮社の古い函入りの文学全集に触れたときであったと思う。四十巻以上に上る厖大な全集の最終巻が「三島由紀夫」であった。今思えば非常に簡素な造作の製本であったが、刊行当時は充分に贅沢で華美な書物の群れとして読者には受け止められたのかも知れない。薄い白紙に無愛想な活字で刷られた日本近代文学の精髄たち、それらの過半を私は殆ど読まずに済ませてしまったが、少なくとも黴臭い函入りの文学全集の威容が、少年であった私の眼前に広大無辺の新世界の存在を報せてくれた事実は揺るがない。この世界は限りなく宏遠であり、未知の事物と現象が果てしなく氾濫しているという厳粛な事実、此れほど劇しく人間の精神に旺盛な好奇心の熱情を点火する事実は他に考えられないのではないだろうか? 未知の世界に対する恐懼と憧憬とは互いに分かち難く、人生において頻々と訪れる意気阻喪の局面においては慣れ親しんだ世界への保守的な安住が最も優れた精神衛生上の効用を齎すことは確かな経験的事実である。だが、慣れ親しんだ世界への保守的な安住だけを、極めて脆弱で臆病な精神的秩序を保護する為に無条件に選び続けるという生き方が、我々の魂に刻み込む退嬰と衰弱の害悪を軽視してはならない。成長を齎すのは未知の世界に対する果敢な挑戦だけであり、従来の常識や鍛え抜かれた手法や蓄積された知見が一向に通用しない局面に身を挺することだけだ。
三島由紀夫の「春の雪」は、四部作の第一巻として綴られ、壮麗な物語の開幕に相応しい典雅な風景に満ちている。未だ百ページ余りしか読んでいない段階で断定的な評言を感想文の裡に定着させるのは軽率な振舞いであるが、例によって備忘の為に、私の貧しい脳裡へ去来する主観的な想念の数々を電子的な画面へ刻んでおきたいと思う。
宮中との間にも繋がりを有する華やかな上流階級の家門を舞台に据えて語られる「春の雪」は、一見すると定型的な「悲恋」の物語のように感じられる結構を備えている。幼馴染の女性に対する思慕、身分や家格によって隔てられる男女の哀切な関係、不可能な夢想への虚しい足掻き、これらの要素は「悲恋」という主題を浮かび上がらせるに当たって最も最適な布置を確保している。
だが、清顕と聡子との間で演じられる麗しい「恋愛」の悲劇が、互いに相手の存在を大切に誠実に想いながらも、或る外在的な権力の一方的な介入の為に引き裂かれてしまうという「悲恋」の健全なテンプレートに一から十まで準拠しているとは言い難い。不可視の運命的な絆で相互に結わえられた、誠実な男女の真摯な愛情の物語、という具合に要約してみても恐らく「春の雪」という作品の本質を精確に穿ったことにはならないだろう。何故なら、松枝清顕という人物にとっては「恋愛」そのものよりも「禁じられた関係」の方が重要な価値を帯びているように見受けられるからである。
彼は優雅の棘だ。しかも粗雑を忌み、洗煉を喜ぶ彼の心が、実に徒労で、根無し草のようなものであることをも、清顕はよく知っていた。蝕ばもうと思って蝕ばむのではない。犯そうと思って犯すのではない。彼の毒は一族にとって、いかにも毒にはちがいないが、それは全く無益な毒で、その無益さが、いわば自分の生れてきた意味だ、とこの美少年は考えていた。
自分の存在理由を一種の精妙な毒だと感じることは、十八歳の倨傲としっかり結びついていた。彼は自分の美しい白い手を、生涯汚すまい、肉刺一つ作るまいと決心していた。旗のように風のためだけに生きる。自分にとってただ一つ真実だと思われるもの、とめどない、無意味な、死ぬと思えば活き返り、衰えると見れば熾り、方向もなければ帰結もない「感情」のためだけに生きること。……(『春の雪』新潮文庫 p.21)
三島由紀夫という作家が、幼少期から己の異常に発達した「感受性」に苦しめられてきた人物であることは、作家自身の証言と数多の作品が度々語っている。換言すれば、この「春の雪」という一篇の幻想的な御伽噺は、三島自身の少年期の、美しく装飾され理想化された「自画像」としての性質を有しているように見えるのである。彼は自分自身の内部で無限に生滅を繰り返す煩瑣な「感情」の奴隷であることを積極的に肯定している。そこには例えば書生の飯沼が懐いているような倫理的な節度に対する意志が明瞭に欠落している。「感情」は具体的な方向性を備えた意志的な努力とは無関係に、それこそ「旗」のように目紛しい受動性の裡に逼塞している。「旗」は自らの主体的な意志や決断に基づいて活動するのではない。飽く迄も統御し難い無作為な力動としての「風」=「感情」の奔放な指示だけに従って動き回るのである。
――清顕のわがままな心は、同時に、自分を蝕む不安を自分で増殖させるというふしぎな傾向を持っていた。
これがもし恋心であって、これほどの粘りと持続があったら、どんなに若者らしかったろう。彼の場合はそうではなかった。美しい花よりも、むしろ棘だらけの暗い花の種子のほうへ、彼が好んでとびつくのを知っていて、聡子はその種子を蒔いたのかもしれない。清顕はもはや、その種子に水をやり、芽生えさせ、ついには自分の内部いっぱいにそれが繁茂するのを待つほかに、すべての関心を失ってしまった。わき目もふらずに、不安を育てた。(『春の雪』新潮文庫 p.39)
清顕の精神は常に「感情」という曖昧で奇怪な現象の有する力に縛られている。彼は「感情」を理智的な努力によって折伏し、自らの意志に屈服させるという克己的な理念とは疎遠な人物である。寧ろ彼は好んで「感情」の畏怖すべき悪魔的な性質、その幻想的な増幅と膨張の深みへ嵌まり込んでいこうと試みる。そうした自虐的な性向は、如何なる根拠に基づいて養われた特質であろうか?