意志の力
人間に備わった広義の「ホメオスタシス」(homeostasis)の機能は、驚くべき力を備えていて、如何なる環境にも自身の存在を適応させる強靭な威力を秘めています。
我々は半ば自動的に、眼前のあらゆる環境に適応してしまいます。適応しなければ、自己の存在を維持することが非常に困難な作業と化してしまうからです。けれども、劣悪な環境に適応してしまうことが、常に我々にとって肯定的な利益を齎すことに繋がると考えるのは聊か性急な判断です。惨めで情けない現実を在りのままに直視する精神的な勇気が重要な価値を担っていることは明白な事実です。しかし、その惨めな現実に屈従し、それを改革する可能性に就いて悲観的な断念を抱え込むのは、人間として本当に適正な振舞いであると言えるでしょうか?
如何なる状況に置かれても幸福であること、それは大切な心掛けです。古今東西を問わず、多くの賢人たちが、外界の環境に左右されない自己の形成を重要な倫理的課題として挙げてきました。古典と称される様々な書物を繙読すれば、我々は容易にそうした意見や教説に触れることが出来ます。しかし、それは一歩間違えると、簡単に現実への屈従や隷属へ横滑りしてしまう危険を孕んでいます。言い換えれば、我々は極めて安直な仕方で、眼前の現実に対する受動的な姿勢を選択してしまう生き物なのです。現実に向かって変革を促す為に積極的に働きかけるのではなく、現実の可能的な形態に就いて想いを馳せるのでもなく、一切の形而上学的な考想を排して、専ら受動的な立場の裡に安住すること、現実の部分として存在しようと試みること、いわば「運命」に対して従順な姿勢を貫徹すること、これらの実存的形式は、人間的な意志の棄却であると言えます。
脆弱な動物のように生きること、或いは風に吹かれる一本の夏草のように生きること、それは確かに幸福な境涯であるかも知れません。けれども、そうした実存の形式には、人間に固有の尊厳が宿っていません。そこに欠落しているものは、明らかに「意志の力」です。屈服を拒み、世界の変革を促し、その過程を通じて自分自身の組成さえも自在に組み替え、変容させてしまうような力、単に精神のみならず、人間の実存の全体によって生み出され、形成される崇高な力、それが「意志」です。無論、それが宇宙的な規模に対して、極めて脆弱な機能に過ぎないことは分かり切っています。パスカルが人間を「葦」に譬えたように、人間の意志の力が、宇宙の冷厳な法則に対して頗る無力な機能であることは明瞭な事実なのです。けれども、その事実は、我々の現実に対する屈服を正当化するでしょうか? 敗北は挑戦の価値を否定するでしょうか? 意志の構造的で本質的な脆弱性は、意志の価値を無効化するでしょうか?
現実を超越しようと試みる奇態な野心、眼前の現実を改革しようと試みる精神的な情熱、これらは人間の「アレテー」に他ならないと私は考えます。結果として現実が改革され得るかどうかは、重要な問題ではありません。自分の所属する現実の構造から身を引き剥がそうと企てること、それが「意志」の最も重要な権能です。間違っても、我々は人間の裡に、この世界を自在に制御し得る絶対的な権力が宿っているなどと考えるべきではありません。それは単なる誇大な夢想に過ぎず、そのような発想は人間的意志の問題とは無関係です。重要なのは、現実と理想との間に穿たれた断裂に堪えることであり、その断裂に堪えかねて身も蓋もない現実へのニヒリスティックな隷属を選ぶことへの拒絶を保つことです。意志は理想と結び付いています。理想と呼ばれる概念の有している最大の美質は、それが現実の酷薄な迫力を軽減する点にあります。苛酷な現実に直面しながら、人間は笑うことが出来ます。現実の不合理な暴力性を目の当たりにしながら、我々はそれを侮蔑する力を持っているのです。理想は、この現実の揺るぎない不変性を否認します。現実は改革され得る、これが理想における最も根幹的な命題です。
換言すれば、我々人間は「形而上学」によって現実を超克する力を備えているのです。形而上学は、感覚的で経験的な現実から乖離した思考の形態であり、それゆえに不毛な妄想に類するものとして批判を浴びることがあります。けれども、意志の力は正に、こうした形而上学的な乖離の構造に依拠して成立しているのです。
あらゆる形而上学的な臆見を排して、事物を在るがままに受容し、現実の裡に自足すること、こうした現実的幸福論は、眼前の現実に対する妥協の産物です。言い換えれば、現実との間に休戦協定を締結することに等しい振舞いです。しかし、如何なる迫害を受けても、不当な断罪に遭遇しても、従容と受け容れること、それが本当に人間として正しい態度であると言えるでしょうか? 抗弁せず、反駁せず、一切の運命を黙って受け容れ、能動的な働きかけを抑制すること、つまり一本の夏草のように揺れながら生きること、それが人間に固有の美徳であると言えるでしょうか?
現実を動かしたり改変したりすることは出来ないという信憑は、人間的価値への背反です。断念と諦観、それは人間的価値を毀損する負性の感情であり認識なのです。あらゆる欲望を事前の目論見の通りに叶えることは不可能であるとしても、眼前の現実の裡に小さな変化を齎すことは誰にでも可能です。人間的意志の機能は、現実の自在な制御を実行するのではなく、現実の裡に微細な「偏倚」を持ち込むものです。あらゆる人間的思考は、そうした「偏倚」の源泉であると言えます。現実は変更することが可能である、という信憑を堅持することは、人間にとって何よりも大事な心得です。極論を言えば「現実など糞喰らえ」ということです。永遠に書き換えられることのない不動の事実を「真理」と呼ぶのならば、正に「真理など糞喰らえ」なのです。