サラダ坊主日記

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プラトン「国家」に関する覚書 2

 引き続き、プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて覚書を認めておきたいと思います。

 「正義」とは何かを問うことは、プラトンの思想的履歴において常に重要な地位を担い続けてきた主題であると言えます。同時に彼の哲学的探究における野心は、この「正義」という観念に至高の善性を賦与することに向けて捧げられています。「正義」であると看做される徳目を絶えず実践し続けることは、個人の実存に対して不幸な重荷を科す営為に他ならないという見方に対して、彼は熱心な対抗的措置を講じます。

 「正義」という観念が重要な課題として議論の対象になるのは、我々の人生が本質的に孤立し得ない性質を有している為であろうと考えられます。つまり、我々が「正義」に就いて熱心な議論を展開せねばならないと感じるときには、必ず「私」の人生に「他者」の人生が関与しているのです。「私」と「私」以外の人間との間に何らかの聯関や共同性が介在するときに限って、我々は「正義」を切迫した重要な課題として認知します。若しもこの世界に「私」以外の人間が存在しないのならば、何が正しくて何が不正であるかを論じることは、専ら技術的な問題に還元されるでしょう。腹痛を起こした場合に、如何なる薬を摂取すべきか、という問題における「正しさ」は、他者との社会的関係において如何なる行動を選択すべきかという問題における「正しさ」とは異質であるように見えます。薬効が如何なる結果を齎そうとも、それ自体は純然たる個人的問題であって、他者との間に何らかの利害関係を形成することはありません。しかし、例えば医者が患者に薬を処方して、その結果として患者の病状が重篤化するような事態に陥った場合、薬効に関する純粋な医学的問題とは別に、医者と患者との間には、或る倫理的な問題が生じます。

 このように考え始めると、我々が日常的に用いている「正義」という言葉の多義的な重層性によって、我々自身の思考が或る不本意な混濁に追い込まれているという現実が見えてきます。我々は「正義」の具体的な内容を論じる以前の段階で先ず、この「正義」という言葉の意味そのものを定義する作業に着手しなければならないのです。

 「正義」とは「或る目的に適っている」という含意を備えた言葉です。従って「正義」には何らかの「目的」が先行していなければなりません。「病を治癒させること」が目的である場合に、効き目のない薬を処方することは「正義」に即さぬ行為です。処方した薬が却って病状を悪化させるのならば、その処方は明らかに罪悪です。

 例えば、或る人物を憎しみの為に殺害することが目的であった場合、毒薬を処方して標的の生命を絶つことは「正義」であると言えるでしょうか? 技術的な意味では、つまり倫理的な価値判断を捨象して考えるならば、毒薬の処方は適正な選択であると言えます。しかし、我々は一般に毒殺を「成功」と呼ぶことには同意しても、それを「正義」であると呼ぶことには若干の心理的抵抗を覚えるのではないでしょうか?

 しかし、例えば虐政を布く悪質な僭主が毒殺されたのならば、それは民衆によって「正義」と呼ばれるでしょう。逆に僭主の側から眺めるならば、毒殺は明らかに「不正な行為」に該当します。そうであるならば、この「毒殺」という行為そのものの裡に「正義」或いは「不正」が本質的に装填されているとは言えないことになります。

 或る行為が「正義」であるか否かは、それを判断する人々の利害に応じて異なります。しかし、そのように考えるならば「正義」という言葉は「利益」という言葉と識別される理由を持たなくなります。また、人間が時には自分にとって明白に損失であるような行為であっても、或る正義の為にそれを意図的に選択することがあるという事実を説明することも出来ません。

 若しも他者が存在せず、個人が孤立した存在として活動しているのならば、恐らく「利害」という概念だけで一切を説明することは可能でしょう。換言すれば「個人的正義」というものは論理的に矛盾しているのです。自己の利害だけを考慮するとき、そこに「正義」という概念を導入する必要はありません。虐げられた民衆が、悪逆な僭主の毒殺を歓ぶとき、その歓びの裡に存在するのは「正義」ではなく「利益」だけです。しかし、その熱烈な歓喜と同時に、若しも民衆が殺された僭主の苦痛に一抹の配慮を示すのならば、その瞬間に「正義」の概念が萌芽したと言えるのではないでしょうか。

 自他の利害を包括的に捉えること、これが「正義」という概念の形成される根源的な培地であると私は考えます。従って「正義」とは、常に社会的関係の裡に見出され、検討されるべき主題であると説明することが出来ます。個人的利害ではなく、包括的な利害を考慮することが「正義」に関する総ての議論の出発点です。そして、包括的利益を考慮し、その最大化を図る為の手段として一般に用いられているのが「法律」です。

 「国家」の序盤において、ソクラテスに対して最も強硬な反駁を示す人物であるトラシュマコスは、法律という制度の性質に就いて語ることで、正義とは何たるかという問題に明瞭な答えを与えようと試みます。

 「しかるにその支配階級というものは、それぞれ自分の利益に合わせて法律を制定する。たとえば、民主制の場合ならば民衆中心の法律を制定し、僭主独裁制の場合ならば独裁僭主中心の法律を制定し、その他の政治形態の場合もこれと同様である。そしてそういうふうに法律を制定したうえで、この、自分たちの利益になることこそが被支配者たちにとって〈正しいこと〉なのだと宣言し、これを踏みはずした者を法律違反者、不正な犯罪人として懲罰する。

 さあ、これでおわかりかね? 私の言うのはこのように、〈正しいこと〉とはすべての国において同一の事柄を意味している、すなわちそれは、現存する支配階級の利益になることにほかならない、ということなのだ。しかるに支配階級とは、権力のある強い者のことだ。したがって、正しく推論するならば、強い者の利益になることこそが、いずこにおいても同じように〈正しいこと〉なのだ、という結論になる」(『国家』岩波文庫 pp.56-57)

 トラシュマコスの議論は極めて明け透けな言い方で、法律の性質を告示しています。彼の意見によれば法律は、権力を掌握した強者の利益に適うように制定されており、従って正義とは強者の利益に資する行為を指すものであるということになります。これは明らかに包括的利益という観点に欠ける考え方であると言えます。自己の利益の確保に専心する人間が、何らかの理由で自らの手に授かった強大な権力を濫用し、法律という制度を通じて他者を支配し、相対的弱者である彼らを使役して、相対的強者の利益を最大化するという考え方は、恐らくトラシュマコスが当時の社会において見聞していた一般的事実の要約なのでしょう。従って、弱者にとって「正義」とは「損害」に他ならないと彼は結論するのです。

 まったく、〈正しいこと〉と〈正義〉、〈不正なこと〉と〈不正〉についてのあんたの考えたるや、次のような事実さえ知らないほど、救いがたいものだ。すなわち、〈正義〉だとか〈正しいこと〉だとかいうのは、自分よりも強い者・支配する者の利益であるから、それはほんとうは、他人にとって善いことなのであり、服従し奉仕する者にとっては自分自身の損害にほかならないのだ。〈不正〉はちょうどその反対であって、まことのお人好しである『正しい人々』を支配する力をもつ。そして支配されるほうの者たちは、自分よりも強い者の利益になることを行ない、そして奉仕することによって強い者を幸せにするのであるが、自分自身を幸せにすることは全然ないのである。(『国家』岩波文庫 pp.72-73)

 こうした観点に基づけば、正義を志向することは自ら積極的に従順な奴隷となることと同義であり、正義を重んじる態度は自己の損害を能動的に求める奇態な倒錯であると看做されることになります。

 けれども、このような意味での「正義」は、単なる強者の利益に被せられた美名に過ぎず、そもそも「正義」の名に値するものではありません。私は別に強者の道徳的頽廃を難詰している訳ではありません。重要なのは、こうした「正義」に関する議論が、包括的利益という観点を欠いている点であり、従って「正義」の実質が、或る個人的利害と何ら異なるものではないという点にあります。強者は自己の利益を最大化する為に他者を利用しているだけであり、それを「正義」であると人々に錯覚させているだけに過ぎません。「正義」という崇高な看板はそのままでも、その中身は狡猾な手口で掏り替えられているのです。

 それに対してソクラテスは、巧妙な論証を通じて「支配」に関する定義の機軸を正反対の方向へ転換します。

 「そしてまた、トラシュマコス」とぼくは言った、「一般にどのような種類の支配的地位にある者でも、いやしくも支配者であるかぎりは、けっして自分のための利益を考えることも命じることもなく、支配される側のもの、自分の仕事がはたらきかける対象であるものの利益になる事柄をこそ、考察し命令するのだ。そしてその言行のすべてにおいて、彼の目は、自分の仕事の対象である被支配者に向けられ、その対象にとって利益になること、適することのほうに、向けられているのだ」(『国家』岩波文庫 p.71)

 支配することは自己の利益を追求する為に他者を使役することではなく、支配される側の人々の利益を配慮するものであると、ソクラテスは定義します。それが事実であるならば、強者の利益を最大化する為に「正義=法律」が案出されたというトラシュマコスの議論は自ずと破綻することになります。その論理の性質は完全に逆転し、本来「正義=法律」とは弱者の利益を庇護する為に設計された規範であると看做されるようになるのです。

 これに関連する議論は、同じくプラトンの著した対話篇『ゴルギアス』(岩波文庫)の裡に見出すことが可能です。饒舌な論客である政治家のカリクレスは、自然の本性としての「ピュシス」と人為的な規律としての「ノモス」とを対比させつつ、次のように論じます。

 しかしながら、ぼくの思うに、法律の制定者というのは、そういう力の弱い者たち、すなわち、世の大多数を占める人間どもなのである。だから彼らは、自分たちのこと、自分たちの利益のことを考えにおいて、法律を制定しているのであり、またそれにもとづいて賞讃したり、非難したりしているわけだ。つまり彼らは、人間たちの中でもより力の強い人たち、そしてより多く持つ能力のある人たちをおどして、自分たちよりも多く持つことがないようにするために、余計に取ることは醜いことで、不正なことであると言い、また不正を行なうとは、そのこと、つまり他の人よりも多く持とうと努めることだ、と言っているのだ。というのは、思うに、彼らは、自分たちが劣っているものだから、平等に持ちさえすれば、それで満足するだろうからである。(『ゴルギアス岩波文庫 p.135)

 トラシュマコスとは反対に、カリクレスは「法律」の制定された意図を「弱者の利益の保護」にあると看做していますが、同時に彼は「ノモス」の価値を露骨に侮蔑的な態度で取り扱っています。彼は法律が強者の利益を毀損し、所謂「自然の正義」を抑圧していることに不満を懐いています。結局のところ、トラシュマコスにしてもカリクレスにしても、強者による自己の利益の追求を「正義」と看做す点においては共通しているのです。それは到底「包括的利益」に対する配慮であるとは言えません。彼らが「正義」であると信じているものは、単に私的な「欲望」であるに過ぎないのです。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)