サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

物語の「証人 / 承認」 三島由紀夫「三熊野詣」

 三島由紀夫の短篇小説「三熊野詣みくまのもうで」(『殉教』新潮文庫)に就いて書く。

 この独特で排他的な師弟愛、非対称的な愛情の光景を描き出した小説は、息苦しい関係を精細に掘り出しながらも、稀な性質の抒情を全篇に森閑と湛えて、他所では得難い風味を読者の心に植え付ける佳品である。

 三島由紀夫という作家は、雑駁な現実の偶発的な集積に過ぎない「人生」の実相を、明瞭な起伏と劇的な終端を備えた「物語」に転換しようとする欲望に取り憑かれた人間である。様々な事件が明瞭な秩序や統整的な理念に基づいて配置されることのない「人生」の無意味な風景を、彼は心底忌み嫌い、根深い敵愾心を燃やしていたのではないかと思われる。彼は「物語」の住人のように生きたいと願い、架空の悲劇を創造する旺盛な芸術家として出立しながら、やがて「物語」の内側に入り込むことを夢見て、実際に諸々の「虚飾」を己の身に帯びるようになった。その絶巓が、自衛隊市谷駐屯地における野蛮な割腹の末期であったことは言うまでもない。

 「物語」に対する欲望は、単なる偶発的事件の継起に過ぎない生活の実態に、つまり曖昧な「現象」の連鎖に過ぎない剝き身の現実というものに、或る本質的な宿命を授与したいという衝迫に駆り立てられている。我々人間は往々にして「無意味」や「虚無」に堪え難い鬱屈を覚え易い。退屈な「日常」に対する遣る瀬ない不平不満は、我々の「人生」が単なる偶発的な遷移以上の価値を有していないように見えることから生じる普遍的な感情の形態である。その虚無的な現実に何らかの特別な価値を与え、堪え難い「アパシー」(apathy)の牢獄から自分自身の霊魂を救済する為に、人間は或る「本質」の獲得を夢見て「物語」のように明瞭な構図を己の「人生」の裡に探し求めるのである。そうしなければ、我々は地上に生を享けたことの意味も、現に生きていることの価値も、適切な仕方で実感することが出来ないのだ。

 恐らく我々人間は、ただ生命体として存在しているだけでは「生きていること」の価値を享受することが出来ないように仕組まれているのではないかと思われる。生きることが「物語」のように明確な構造を備えていなければ、我々は虚しさに魂を蝕まれ、積極的で肯定的な意欲を保持することに著しい困難を覚えてしまうのだろう。時に人間が占いや宗教に縋ってしまうのも、単に眼前に聳える問題の解決策を欲しているからではなくて、自分自身の単調な生活に明瞭な「意味」や「価値」を賦与したいという切実な祈念の反映であると考えられる。我々は占い師に確実な「未来図」の提示を求めているのではなく、我々の生活の本質を貫く運命的な筋書きの存在を請け合ってもらいたいと期待しているのだ。そして三島由紀夫という人物のオブセッションは絶えず「悲劇的な夭折の栄光」という物語の類型に特別な親和を見出すのである。

 「三熊野詣」に登場する藤宮先生と常子との非対称的な関係性は、我々が他者の存在を必要とする理由の一端を開示しているように思われる。つまり、我々が自分自身の物語を信じる為には、他者による親密な共有と保証が不可欠なのである。若しも我々が無人島における孤絶の境涯の裡に生きていたら、恐らく「物語」という装置の重要性は大幅に減殺されるだろう。我々はもっと原始的な動物のように「生存するだけ」で充たされたに違いない。けれども我々の魂に穿たれた「社会性」の絶対的な強制力は、そのような動物的孤独の虚しさを片時も閑却させない。言い換えれば「物語」には必ず「読者」或いは「証人」の介在が必要なのである。誰かが傍らにいて「私」の想い描く「物語」の現実性を認めてくれなければ、我々の「人生」は決して孤独な「妄想」の閉域を脱却することが出来ないだろう。例えば「憂国」における若く美しい新婚の夫婦の心中が、他者による讃嘆や誹謗と無縁であるならば、その悲劇的な栄光への野心は決して報われず、単に血腥い「死」が物理的な現象として横たわるだけに留まるしかない。他者という証人を欠いた「物語」は結局のところ、純然たる「偶発的事実」の羅列以上の価値を獲得することが出来ないのである。

 見ようによってはそれはずいぶん月並な、甘すぎる伝説であるけれど、先生の好みとあれば致し方がない。常子は、はっと気づいて、それこそ正鵠を射ていると、認めざるをえなかった。

 常子は証人として選ばれたのだ!

 そうでなければ、先生が憂いをこめて話されたこのような物語が、こうまで先生に似合わない筈はない。先生のすがめ、先生のソプラノの声、先生の染めた髪、先生の袴のようなズボン、……それらすべてが、こうまでその物語を裏切っている筈はない。人生から常子が学んだことは、誰の身の上にも、その人間にふさわしい事件しか起らないという法則だったが、それは今まで常子に正確にあてはまって来た以上、先生にもあてはまらぬ筈はない。

 ――ここまで考えると、常子は、この物語をうかがった瞬間から自分が死ぬまで、決してこの物語を信じないような表情だけは、先生の前でも人の前でも、見せまいという固い決心をした。十年間先生に対してはげんできた常子の忠勤から云っても、その忠勤の帰結はここにしかないことが、はっきりわかる。(「三熊野詣」『殉教』新潮文庫 p.361)

 「物語の共有」は共に生きること、特別な愛情によって結ばれることと同義である。相手の物語に対する攻撃や批判は、相手に対する憎しみや無関心の所産に他ならない。誰かを愛する以上は、相手の抱え込んでいる物語の正統性を信仰する以外に途はないのだ。藤宮先生が常子に期待したのは、そうした「物語」を巡る共犯者としての働きである。当然のことながら、犯罪の片棒を担がせる相手を選ぶのに、信頼に値しない人間を候補に計えることは有り得ない。常子の奇態な幸福は、共犯者に指名された人間の味わう秘められた甘美な愉楽の感情なのである。

殉教 (新潮文庫)

殉教 (新潮文庫)