サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

日常の「彼岸」に憧れて 三島由紀夫「離宮の松」

 三島由紀夫の短篇小説「離宮の松」(『真夏の死』新潮文庫)に就いて書く。

 退屈な日常への嫌悪、恐るべき倦怠への絶望的恐懼、これらの心理的現象は、如何にも三島由紀夫に相応しい主題である。延々と繰り返される単調な生活には、絢爛たる栄誉も残酷な悲劇も共に欠けている。言い換えれば、胸騒ぎのする「物語」が欠けている。日々の細々とした瑣末な雑役、歓びも哀しみも伴わない機械的日課の反復、代り映えのしない光陰の迅速、これらの果てしない無味乾燥な継起は、三島が最も呪詛した実存の形態である。「夭折」の華々しい栄光に憧れ続けた三島は、劇的な「宿命」を常に待望し、安閑たる平俗な日常の連鎖を心から侮蔑していた。

 その一方で、彼は自身の内なるロマンティシズムを扼殺することにも多くの労力を支払っていた。彼の人生は、華麗なるロマンティシズムと辛抱強いリアリズムとの目紛しい相剋によって構成されている。それは所謂「社会的成熟」への憧れであろうが、生半可な努力で抑え込めるほど、彼の精神の基底に浸潤したロマンティシズムの濃度は薄くなかった。退屈な日常を絶えず超越しようと試みる悪戦苦闘が、彼の生涯の主要な旋律であったのだ。

 非の打ち所のない完璧な「幸福」は、演劇の主題としては平板である。何故なら「幸福」は、眼前の現実に対して如何なる不足も感じないという静謐な精神的形態であり、そこから何らかの目映い「物語」を引き出すことは著しく困難であるからだ。「幸福」は劇しい渇仰や抗い難い衝動と根本的に無縁である。「幸福」は、それ自体が一つの堅固な帰結であり、最終的な到達地点であり、あらゆる欲望の死滅した閑寂な墓地なのである。言い換えれば「幸福」は、総ての「物語」が終幕した後に訪れる「溶暗」の沈黙に覆われた境地なのだ。

 従って必然的に、劇的な「物語」への欲望は、如何なる過不足とも無縁の「幸福」の裡に留まることを拒絶する。純然たる「幸福」、完成された「幸福」は、新たな物語の起動を促進しないからである。持ち前の「幸福」の裡に留まる以外の選択肢を得る為には、我々は「幸福」を上回る何らかの価値を信じなければならないし、求めなければならない。

 「幸福」が現状への全面的な肯定であり、如何なる不足も欠乏も感じない境涯に授けられた名称であるならば、一般に「幸福」を希求する総ての人々は「不幸」であるということになる。「幸福」への憧憬や渇仰は何よりも明瞭に、当人の「不幸」を立証している。退屈な日常の反復を肯定しない限り、人間が安定的な「幸福」を享受することは原理的に不可能であるが、不幸な人間は往々にして「幸福」を手の届かない「彼岸」の領域に探し求める。厳密に言えば、そのとき人が求めて得られずに苦しんでいるものは「幸福」以外の何かなのだろう。

 「離宮の松」において、子守の少女が願っているのは恐らく素朴な「恋愛」であり「家族の幸福」である。しかし、彼女の日々の生活は他人の子供を預かって世話を焼くことで埋め尽くされ、自分自身の子供を養育する歓びは夢想の裡にしか存在しない。

 どの女たちもその背中に、赤ん坊を背負っていないのを美代は見た。別段ふしぎなことではない。銀座通りを歩いても、ねんねこおんぶには滅多に会えるものではない。それだけに美代には、自分の風体が何だか恥かしくてならないのである。そればかりではない。こんな重荷を公然と背負っていては、人並の仕合せに到底めぐりあえないような気がした。(「離宮の松」『真夏の死』新潮文庫 p.124)

 事実がどうであれ、少なくとも彼女の心理的な現実においては、預かっている他人の子供は、彼女の欲する「人並の仕合せ」の到来を妨げる障碍として存在している。そして彼女は、名前も知らない一組の男女の手に子供を委ねて、そのまま行方を晦ませる。彼女は自身の生活を呪縛する退屈な規律に背いて、公序良俗埒外へ向かって駆け出し、俄かに失踪したのである。

 だが、それによって彼女が長らく待ち望んできた「幸福」が手に入ったかどうかは不明のままである。この短篇において描かれるのは「脱獄」の決断の局面だけで、檻を逃れた囚人の末期は省かれている。だが、出発の刻限に人が感じる、恐怖と綯い交ぜになった「希望」は、それ自体が既に美しいものなのだ。たとえ刹那的な鼓動の高鳴りに過ぎないとしても、人は常にそこから出発するより他ないのである。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)