サラダ坊主日記

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プラトン「パイドン」に関する覚書 1

 プラトンの対話篇『パイドン』(岩波文庫)の繙読に着手したので、断片的な感想を記録しておきたいと思います。

 プラトンの壮麗な思想の体系が、師父であるソクラテスの薫陶と、その不合理な刑死から受けた衝撃の裡に胚胎したことは揺るぎない事実であろうと思います。事実、初期の幾つかの対話篇においては、プラトンの著述の意図は、ソクラテスという特異で奇態な人物の姿を活写し、その思想の方法を克明に記録して、歴史的な忘却から救済することに存しているように思えます。

 けれども、時間の経過と共に、そうした忠実な弟子の立場から、プラトンは徐々に脱却していきます。彼が若しもソクラテスの忠実な弟子の立場に留まることを選択していたら、プラトンの名は、厖大な西洋哲学史の片隅に僅かな席を占める伝記作者としての地味な栄誉に浴するだけで済まされていたことでしょう。けれども実際には、彼は師父であるソクラテスとは異質な思想的実存を形成する方向へ舵を切りました。その兆候は「メノン」において最初に萌芽し、この「パイドン」において極めて鮮明な形で発芽します。

 「それでは、このことをもっとも純粋に成し遂げる人は、以下に述べるような人ではなかろうか。その人は、できるだけ思惟そのものによってそれぞれのものに向かい、思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体のみを追究しようと努力する人である。その人は、できるだけ目や耳やいわば全肉体から解放されている人である。なぜなら、肉体は魂を惑わし、魂が肉体と交われば、肉体は魂が真理と知恵を獲得することを許さない、と考えるからである。シミアス、もしだれか真実在に到達する人があるとすれば、それはこの人ではないか」(『パイドン岩波文庫 p.34)

 プラトンの思想における特質は、こうした明白な霊肉二元論と、取り分け肉体的な領域に対する露骨な賤視に顕れています。彼は肉体的な感覚を通じた認識に対する根源的な不信を隠そうとしません。感性的な経験は、彼にとって正しい認識の源泉でも材料でもなく、寧ろ正しい認識を抑圧したり混乱に陥れたりする悪しき弊害として位置付けられているのです。

 このようなプラトンの思想の特質が、如何なる具体的な経緯によって培われたのか、私には分かりません。ただ、こうした思想が良くも悪くも眼前の現実に対する敵意や憎しみ、絶望といった否定的感情を自らの淵源としていることは、概ね確実ではないかと思います。眼に映る世界、耳に響く世界、自分の手で触れて確かめることの出来る世界を疑い、否定し、侮蔑すること、それら地上の生活の一切を「肉体」という名の穢れの集合として捉えること、これは現実との幸福な融和の裡に生きる人間にとっては、馴染み難い発想であろうと思われます。

 ソクラテスの刑死がプラトンに与えた実質的な影響や、そこから生じた彼の個人的な感情の変遷の履歴に就いて、遥か遠く離れた後世に生きる我々が確かな事実を指摘することは不可能に等しいと言えます。けれども、敬服するソクラテスの刑死が現実の世界に対する劇しい絶望を喚起したと想定することは、一般的な解釈としては認められるべきものでしょう。正義であり、真実であると信じる対象が、身も蓋もない酷薄な現実の中で、実際に断罪され破壊されたという事実は、彼の実存の根底に重要な影響を及ぼしたであろうと考えられます。彼にとっての真理は、感覚的な現象の世界の裡に求めることの出来ないものです。感覚的な現象の世界が正しいのならば、それはソクラテスの刑死という不動の歴史的事実と背馳するからです。ソクラテスの思想を、この不合理で絶望的な現実の渦中から救済する為には、現実を否定し、断罪し得る明確な根拠が必要です。そうした根拠を創出する為に、彼は自身の思想を独自の方法と理念に基づいて鍛造したのではないでしょうか。

 例えば有名な「アナムネーシス」(anamnesis)の学説は、人間の認識を経験的な裏付けから切り離す為に考案された論理であると言えます。人間は森羅万象に関する総ての事実を予め理解しており、所謂「無智」の状態は「忘却」の異称に過ぎない、従って「学習」とは「想起」の営為に他ならないと看做すアナムネーシスの思想は、物質的な現実、感覚的な現実の次元から「真理」に関する認識を分離し、純粋な形で抽出するものです。それは認識に揺るぎない普遍性を与える為の手続きであり、その為に必要な手段として霊肉二元論の思想が導入されたのです。

 人間の存在を「魂」と「肉体」とに分離し、両者の厳密な識別を重視する二元論的発想は、明らかに絶対的で普遍的な「真理」の実在を想定しています。そのように考えなければ、ソクラテスの刑死を崇高な殉教として、つまり無理解な大衆による不当な断罪として定義することは困難になります。「真理」が不当な仕方で断罪されたという認識は、プラトンの思想の根底に横たわる最も重要な思想的「外傷」です。この外傷を糾弾し、ソクラテスの刑死を歴史的必然ではなく、不当な断罪として読み替える為の論理を整備しなければ、彼の実存は根本的に倒壊してしまうでしょう。

 ソクラテスの刑死を必然的な措置であると看做すことは、プラトンにとっては不可能な解釈です。それは彼の蒙った絶望的な外傷を正当化する論理であるからです。刑死を不当な断罪として措定する為には、普遍的な真理が相対的な現実によって不幸にも毀損されたという筋書きが必要です。そうであるならば、真理は感覚的な世界の住人によって、その妥当性を保証されるべき対象であってはなりません。真理を社会的合意に還元することは、ソクラテスの刑死を真理の毀損ではなく、真理の帰結と看做すことになりますから、プラトンにとっては受け容れ難い話なのです。真理に超越的な性格を賦与し、現実による攻撃や迫害から救済する為に、彼の独創的思想は組み立てられています。換言すれば、プラトンの思想は「真理の秘教化」を目指す一連の運動なのです。

 けれども、ソクラテス自身は、そのような「真理の秘教化」とは対蹠的な場所で生きていました。彼が常に市井の人々との対話を愛し、その過程に思想的な重点を置いていたことは歴史的事実です。不特定多数の人々との「対話」を哲学的探究の根幹に据えるソクラテスの方法は、明らかにプラトンによる「真理の秘教化」の方向性と背馳しています。ソクラテスが従容として毒の杯を呷ったという事実に関して、ソクラテス自身の解釈とプラトンの解釈との間には、微妙な乖離が存在します。ソクラテスは決して絶対的で普遍的な真理の名の下に不幸な殉教を遂げた訳ではありません。彼は現実の相対的な性格に何の不満も覚えていないのです。寧ろ彼が試みたことは常に現実の相対的な性質を剔抉し、揺るぎない真理の自明性を転覆するという目的に向かって捧げられていました。それは真理の普遍性を破壊する行為であり、それゆえに彼は既存の共同体から憎悪の対象に選ばれたのです。ソクラテスの方法は、真理を普遍化し秘教化する作業を通じて師父の栄光を恢復しようと企図したプラトンの方法と、完全に擦れ違っています。プラトンの野心は、自らの掌中に正当な断罪の権利を収めることだったのではないかと、私は感じるのです。それは哲学的探究とは無関係な、一つの政治的な闘争に他ならないと、私は考えます。

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)