サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

プラトン「饗宴」に関する覚書 2

 引き続き、プラトンの対話篇『饗宴』(光文社古典新訳文庫)に就いて書きます。

 「饗宴」におけるソクラテスと、ディオティマという謎めいた女性との含蓄に富んだ対話には、かつて「メノン」において取り上げられた「探究のパラドックス」との深い関連性を思わせる場面が登場します。

 また、エロスは知恵と愚かさの間にいる。それは、こんな事情による。

 神々は誰一人として、知恵を愛し求めもしなければ、知恵ある者になりたいとも思わぬ。すでに知恵があるのだからな。神でなくとも、知恵ある者なら、知恵を愛し求めることはないのだ。

 ところが、愚か者もまた、知恵を愛し求めもしなければ、知恵ある者になりたいとも思わぬのだ。なにしろ、愚かさというものはなんとも始末に負えぬしろもので、美しくもよくもなく、賢くもないくせに、自分はそれで十分だと思い込むのだからな。自分にはなにかが欠けているとは夢にも思わぬような輩が、自分には必要ないと思っているものを欲しがることなどあるまい』(『饗宴』光文社古典新訳文庫 pp.128-129)

 この一節と、例えば「メノン」における次のような箇所との間に、重要な関連を見出すのは牽強付会に過ぎないでしょうか?

 「人間には、知っていることも知らないことも、探究することはできない。

 知っていることであれば、人は探究しないだろう。その人はそのことを、もう知っているので、このような人には探究など必要ないから。

 また、知らないことも人は探究できない。何をこれから探究するかさえ、その人は知らないからである」(『メノン』光文社古典新訳文庫 p.67)

 探究という知性的な欲望は、常に「既知」と「未知」との狭間で形成されます。所謂「愛智」の精神、つまり哲学的探究という営為の根幹を成す根源的な欲望は、明らかに「未知」という知性的な飢渇の感覚によって導かれています。思考は絶えず物事の狭間、認識の狭間、一見すると相互に対極に位置するように思われる要素同士の間で、その本質的な機能を発揮するのです。確固たる認識、揺るぎない信仰、堅忍不抜の正義、これらの要素は哲学的探究とは馴染まない厳密な輪郭を備えています。何故なら哲学とは元来、そうした堅固な境界線の存立する根拠を疑うことから始まる営みであるからです。

 けれども、ソクラテスの口を借りて表明されるプラトンの思想は、そのような曖昧な宙吊りを必ずしも好まなかったように思われます。これは私の勝手な想像に過ぎませんが、実在のソクラテスと、プラトンによって加工された架空のソクラテスとの間には、重要な隔たりが介在していたのではないでしょうか。対話篇の性質の段階的な変遷は、生前のソクラテスの思想の忠実な記録から、プラトンに固有の思想の情熱的な表明への漸進的な移行を露わに示しているように感じられるのです。

 確固たる「真理」の追究、それが或る何らかの壮麗な「信仰」を齎すのであれば、即ち「真理」とは権力の類義語に他ならないということになるでしょう。けれども本来、哲学に課せられた社会的役割は、堅牢な信仰の異様な正統性に亀裂を走らせることである筈です。少なくとも初期の対話篇におけるソクラテスの姿は、絶対的な真理を崇高な教義として訓示する偉大な「教祖」の風貌とは無縁です。彼は世間から数多の批判を浴びせられ、絶えざる嘲笑や揶揄に包囲され、常に不本意な対話の「動揺」の裡に埋もれています。ソクラテスが成し遂げるのは、相手の所持している素朴な信仰を自家撞着に追い込み、その傲然たる威厳を審判の法廷へ連行することだけです。それは対話の相手を「裁く」こととは無縁の営みです。事実、彼は共同体の憎しみを買って、不可解な理由に基づいて処刑されるほどに無力な存在に過ぎませんでした。彼が憎しみの標的に据えられたのは、絶対的な真理の威光によって人々を抑圧したからではなく、その言動が社会に対する小賢しい「侮蔑」を孕んでいると裁定された為ではないかと思われます。言い換えれば、彼の存在は、彼の所属する共同体に対立する異質な権威の象徴と呼べるほどに強固なものではなかったのです。

 所謂「無知の知」という言葉で知られる通り、彼は自身を「真理」と同一視する誇大妄想とは無縁でした。彼は単に、自分が知っていると思い込んでいる事柄に関する認識の脆弱な性質を剔抉することに情熱を燃やしただけです。しかも、その「曝露」に対する情熱は聊かも正統な権威に庇護されるべきものではなく、恐らく当時の人々の眼には奇怪な「悪癖」として映じたことでしょう。ソクラテス自身は、それが「神霊」の囁く命令に基づくものであると弁明していますが、重要なのは、彼が或る奇妙な情熱に強いられるように「無智」の告発に明け暮れていたという点です。彼は何らかの具体的な真理を積極的に語り、人々を説伏して回った訳ではありません。

 けれどもプラトンは、そのような「無智」の自覚に忍耐強く留まることよりも、積極的な「理想」や「学説」を表明することに関心を懐いていたように思われます。そうでなければ、例えば「アナムネーシス」(anamnesis)や「イデア」(idea)といった独創的概念を発案し、流布しようとは考えなかったでしょう。自分の知覚し得ない世界に就いて、真の実在のようなものを想定する行為は、ソクラテス的な探究の原則とは異質な方針に依拠しているように見えます。所謂「プラトニズム」(Platonism)の誕生は、ソクラテス的な精神の否認の上に成り立っているのではないかという考えが、現在の私を襲っているのです。

饗宴 (光文社古典新訳文庫)

饗宴 (光文社古典新訳文庫)