サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

戦後的倫理の諷刺 三島由紀夫「百万円煎餅」

 三島由紀夫の短篇小説「百万円煎餅」(『花ざかりの森・憂国新潮文庫)に就いて書く。

 貧しいが勤勉で堅実な若い夫婦の何気ない遣り取りを入念に写し取り、最後の二頁で意想外の皮肉な暗転を示す、この簡潔な「コント」(三島自身の表現)に、大仰な主題を読み取ろうと企てるのは無粋な振舞いかも知れないが、兎に角私の脳裡に浮かび上がった感想の断片を牛の涎の如く縷説しておきたいと思う。

 表題にも露わに示されている通り、この作品は全篇に亘って、随所に細々とした銭金の記述が象嵌されている。若い夫婦が夢見ているのは質実な夢想であり、その健全な夢想を叶える為には兎に角、経済的収入が必要である。彼らの姿は堅実で理想的な小市民の典型であるにも拘らず、その生業は売春に類するもので、質実で凡庸な生活と、社会の暗部に属する生計の手段との不均衡な対比が、この作品に独特の風味を添えている。社会の要求する理想的な市民生活が、公序良俗を紊乱する不法な生業によって成り立っているという矛盾を、三島は抑制された平淡な筆致で、つまり何食わぬ顔で涼しげに剔抉しているのである。

 三島由紀夫という作家の思想は、浅薄な誤解に基づいて世人が論うように、右翼的な狂奔の情熱に強いられている訳ではない。彼が戦後民主主義への批判的な言及を繰り返したのは、彼が戦前の日本社会の残像を肯定的な懐旧の情と共に眺めていたからではない。彼が囚われていたのは「夭折」の神話であり、壮麗な死を通じて「時間」という流動的な制約、不可逆的な制約を免かれることが、彼の生涯を貫徹する不可能な悲願であった。

 戦時中の軍国主義的な青春は三島の内面に、こうした「夭折」の神話に対する飽くなき情熱を培養したのではないかと思われる。彼は予定された絶対的運命としての「死」を夢想することで、眼前の「生」に特権的な光輝を授ける精神的な魔術を会得した。その剣呑な魔術の効果を用いれば、如何なる鬱屈も倦怠も立ち所に雲散霧消する。しかし敗戦によって、そうした魔術的時間の蠱惑は失効した。無限に持続する退屈で単調な「輪廻」の生活、やがて総てが老衰し、あらゆる美しいものが往時の栄光を剥奪されていく緩慢な堕落の時間、それが偶々、三島にとっては戦後のデモクラティックな社会における実存を意味したのである。

 ……私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点にあるのかもしれない。言葉を介さずに私が融合し、そのことによって私が幸福を感じる世界とは、とりもなおさず、悲劇的世界であったからである。もちろんその瞬間にはまだ悲劇は成就されず、あらゆる悲劇的因子を孕み、破滅を内包し、確実に「未来」を欠いた世界。そこに住む資格を完全に取得したという喜びが、明らかに私の幸福の根拠だった。そのパスポートを言葉によってではなく、ただひたすら肉体的教養によって得たと感じることが、私の矜りの根拠だった。そこでだけ私がのびやかに呼吸いきをすることのできる世界、完全に日常性を欠き、完全に未来を欠いた世界、それこそあの戦争がおわった時以来、たえず私が灼きつくような焦躁を以て追い求めていたものであったが、言葉は決して私にこれを与えなかったのみか、むしろそこから遠ざかるように遠ざかるようにと私を鞭打った。なぜなら、どんな破滅的な言語表現も、芸術家の「日々の仕事ターゲヴェルク」に属していたからである。(「太陽と鉄」『三島由紀夫文学論集Ⅰ』講談社文芸文庫  p.66)

 この理屈を敷衍すれば、明らかに「百万円煎餅」に登場する若い夫婦は、素朴な「未来」の信奉者、紛れもない「日常性」の権化であると言えるだろう。そして彼らの日常生活は徹頭徹尾、堅実な貯蓄の推進という経済的理念によって拘束されている。彼らは生計を立て、未来への投資を可能とする為に、最も個人にとって内密である筈の夫婦間の「情事」を見世物に供する。そうした現実への憤懣から、夫である健造が百万円煎餅を引き千切ろうとして果たさない終幕の描写は、戦後社会の経済的原理に基づく支配が極めて強靭な構造を備えていることを暗示しているようにも思われる。

 だが、三島は決して健造と清子の営む堅実な生活を、一方的に唾棄すべき浅ましい日々として捉えていた訳ではないと私は思う。彼もまた、自己の内なる野心的夢想を、つまり「夭折」の神話に対する危険な憧憬を腕尽くで扼殺し、日常性の厳粛な拘束の下に生きていこうと企てた時期がある筈だからだ。具体的には、それは「金閣寺」から「鏡子の家」を執筆していた時期に該当すると推測される。その努力は残念ながら潰えて、彼は末期の蛮行に及んだ。その善悪を、簡単に判定してしまうことは誰にも出来ない。その死は、彼が長年に亘って望み続けた、晴れがましく光り輝く「大義に殉ずる死」ではなかったが、少なくとも彼自身の抱懐する私的な倫理学の規矩には適っていたと言えるからである。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

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