サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

The Hopeless Obedience 安部公房「砂の女」

 安部公房の長篇小説『砂の女』(新潮文庫)を読了したので、感想文を認める。

 著者の代表作である「砂の女」の通読は概ね二十年振りではないかと思う。一度目は中学生の頃、父親の書棚に置かれていた函入りの初版本で読んだ。細部の記憶は曖昧だが、その息詰まるような緊迫感に惹かれて瞬く間に読み終えた覚えがある。少なくとも「燃えつきた地図」や「箱男」に比べれば遥かに読み易く感じられた。
 中学生の頃よりは随分と世間に揉まれて世知辛く薄汚れ、狡猾にもなれば純粋にもなった今の私の眼で繙いた「砂の女」の読後感は異様な重みを孕んでいる。夥しく鏤められた警抜な比喩と幻想に塗れた独自の文体を通じて描き出される、或る陰惨な漁村の風景は、口腔に苦く粘つく砂利の感覚さえ喚び起すようだ。その重層的な意味を帯びた細部に着目する限り、この作品の本質を要約することは極めて困難である。だが敢て蛮勇を揮い、偏狭な誤読を承知の上で論評と解釈を試みたい。
 或る角度から眺めれば、この作品は要するに「服従」の過程を描いた小説であると判定することが出来る。村人に欺かれ、自由な出入りを禁じられた砂の窖へ投げ込まれた男の煩悶と苦悩が、作品の全篇を貫く主要な旋律であることは言うまでもない。その不幸な男の心理的な変遷は、要するに外部から強制された服従を、徐々に内在的で自発的な服従へ作り変え、焼き直していく過程であると言える。だが、それを極めて強権的で独裁的な組織による不合理な弾圧と捉え、それに対する無惨な敗北の過程だと結論するのは、必ずしも適切な評価ではない。

「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」
 男はたじろいだ。まるで、顔がすげかえられたような、変りようだ。どうやら、女をとおしてむき出しになった、部落の顔らしい。それまで部落は、一方的に、刑の執行者のはずだった。あるいは、意志をもたない食肉植物であり、貪欲なイソギンチャクであり、彼はたまたま、それにひっかかった、哀れな犠牲者にすぎなかったはずなのだ。しかし、部落の側から言わせれば、見捨てられているのはむしろ、自分たちの方だということになるのだろう。当然、外の世界に義理だてしたりするいわれは、何もない。しかも彼が、その加害者の片割れだとなれば、むき出された牙は、そのまま彼にたいして向けられていたことにもなるわけだ。自分と、部落との関係を、そんなふうに考えたことは、まだ一度もなかった。ぎこちなく狼狽してしまったのも、無理はない。だからと言って、ここで退き下っては、自分の正当性を、みずから放棄してしまうようなものである。(『砂の女新潮文庫 pp.246-247)

 明瞭な「加害者/被害者」の構図は否認され、部落に対する男の服従は、絶対的な悲劇としての性質を奪われている。「加害者/被害者」の関係が重層的な相対性に蚕食され、明確な定義を剥奪されているのであれば、男の奇妙な境遇を一義的な不幸として認定することも不可能になる。つまり「部落/男」の切迫した格闘という構図は「加害者/被害者」の複雑な入れ子構造によって攪乱され、図式としての妥当性=有効性を欠いてしまうのである。そもそも、部落の人々が男に対して示す態度は、必ずしも攻撃的であったり懲罰的であったりするものではない。彼らは男の叛逆も脱走も容認しないが、逃亡に失敗した男に対して苛烈な処罰を与える訳でもない。その方針は「宥和的な支配」とでも称すべきものである。男が労働に精励し、規則を遵守して従順な態度を示す限り、部落側の対応は宥和的な性質を帯びる。露骨な反抗を試みた場合でも、応対する部落の老人の態度は抑圧的なものではなく、専ら相手の言い分を聞き流し、最終的には沈黙によって拒絶するという曖昧な方針に貫かれている。言い換えれば、彼らは強権を行使して男を不当に監禁しているのではなく、謂わば「共に監禁されている」のである。部落の人々にとって、砂の窖に閉じ込められた哀れな男は、愚かな獲物でも憎むべき敵対者でもなく、要するに「監禁」の状態を共有する「同胞」なのである。
 だが、彼らは何に監禁されているのだろうか? 部落にとっては「部外者」に他ならない立場に属する男は幾度も、こんな不毛の土地に埋没し、貧困な僻村に「愛郷精神」を以て奉仕することの愚昧を、同居する女に向かって熱弁する。事実、この土地を捨てて移り住むことは不可能ではなく、相応の苦労は代償として求められるにせよ、新しい生活の開拓に賭け金を投じることは可能な選択肢の一つなのである。しかし、彼らは夥しい砂の猛威に監禁された苛酷な生活を投げ出そうとはしない。彼らの根深い断念と諦観は、如何なる意味を宿しているのだろうか。
 砂の窖に幽閉された男の苦悩が「自由」という観念と密接に絡まり合うのは当然の帰結である。彼は「自由」に憧れ、不当な「拘禁」の生活を呪詛する。しかし、彼が砂の窖へ幽閉される以前の生活は、燦めくような「自由」の価値を謳歌するものであったと言えるだろうか? つまり、彼の個人的な不幸は「拘禁」或いは「服従」の日々によって増幅されたものだと断定し得るだろうか?

 女が連れ去られても、縄梯子は、そのままになっていた。男は、こわごわ手をのばし、そっと指先でふれてみる。消えてしまわないのを、たしかめてから、ゆっくり登りはじめた。空は黄色くよごれていた。水から上ったように、手足がだるく、重かった。……これが、待ちに待った、縄梯子なのだ……
 口から、息を叩きおとすように、風が吹いていた。穴のふちをまわって、海の見えるところまで、登ってみる。海も黄色く、にごっていた。深呼吸をしてみたが、ざらつくばかりで、予期していたほどの味はしなかった。振向くと、部落の外れに、砂煙が立っている。女をのせたオート三輪なのだろう。……そうだ、別れる前に、罠の正体だけでも教えておいてやればよかったかもしれない。(『砂の女新潮文庫 p.265)

 やっと眼の前に投げ与えられた解放の希望に、男は指先で触れるだけで、その好機を掴み取ろうとはしない。失敗した逃亡の際に見せた狂的な情熱は、その片鱗すら示さない。彼の「服従」は、遂に主体的な自発性を獲得したのである。しかし、この不穏な「適応」は奇妙な例外的現象であると言えるだろうか。決まり切った労働の反復に時を費やし、例えば自家製の「溜水装置」の開発という生活上の創意工夫に情熱を傾ける男の姿は、飛砂の監獄に繋がれた人間に固有の実存的様態だろうか。寧ろそれは「被投性」という条件に縛られて生きる総ての人間に共通する実存の形式ではないのか。

 べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。それに、考えてみれば、彼の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。
 逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。(『砂の女新潮文庫 p.266)

 作品の終局に至って、男の内部では「逃亡」に対する切実な欲望が完全に衰滅しつつある。この一節の後に続く家庭裁判所の書面は、男が遂に脱出を選ばず、脱出の意義を否認して顧みなくなったことを暗示している。本来ならば自前で用水を確保し、部落の人間に対抗する為の手段であった筈の「溜水装置」の秘密さえ、彼は「監禁」の同胞である部落の人間と分かち合おうとしているのである。これが「服従」の完成された形態であることは言うまでもない。だが、完璧に構築された自発的服従の絶望的側面を強調する為だけに、この結末が準備されたのだと考えるのは短見である。煎じ詰めれば、外装がどうであれ、人間の生活の本質は、こうした「適応」の所産に他ならないという省察が、服従に対する我々の単純な拒絶の意識を当惑させる。「砂の女」をヒロイックな冒険譚から隔てるのは、この当惑の根深さである。言い換えれば、如何なる表面的脱出も、厳密な「解放」を意味するものではないという認識が、感傷的な英雄主義と甘美な悲劇の双方を同時に無効化するのである。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)