サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(雨の葛西の線路の下で)

*保育園に通っている四歳の娘の運動会が本日予定されていたので、休みを取っていたのだが、降雨の為に当日の朝になって順延が決まった。妻も娘も仕度の為に早朝から起き出していたが、無意味な早起きとなってしまった。覚醒した娘は眠気と戦う妻に彼是と遊びの相手を務めさせる。無論、私が蒲団から出れば、今度は私に白羽の矢が立つ。一日中、家に籠っていては気詰まりだし、遊びの種も尽きるし、子供も気が紛れなくて不満が募り我儘に拍車が掛かることは眼に見えている。妻の休養と、娘の苛立ちの軽減という一挙両得を狙って、冷たい雨の中を連れ出すことにした。
 携帯で手早く調べて見つけたのは東西線葛西駅の高架下にあるという地下鉄博物館である。本当は大宮にある鉄道博物館も視野に入れたのだが、事前の予約が要るらしく、幕張在住の身には遠方でもあるので音速で断念した。地下鉄博物館は入場料が異様に安い。安いから客が多いと考えるのは短見で、日本一混んでいると思われる天下無双のテーマパーク・東京ディズニーリゾートの入場料は暴力的に高い。高くても客が来るなら限界まで値段を上げるのが商売の鉄則であり、安いのは安くしないと客が入らないからである。つまり、入場料から推測するに空いているだろう、冷たい雨が一日降り頻る平日の午後でもあるし。コロナ対策の観点を除外しても、そもそも私は人で混んでいるところが嫌いだ。閑散とした喫茶店など最高である。それに、地下鉄博物館というのはニッチな商売である。鉄道全般ではなく、地下鉄に絞り込んでいるのだから。子供たちの間で抜群の知名度を誇る新幹線には絶対に出逢えない施設である。そうであるならば、空いているに決まっている。そのように期待して、私は娘と連れ立って雨傘を差して家を出た。
 娘は外出なら何でも歓ぶという無邪気な四歳児ではなく、気が向かないと容易に腰を上げない尻重女である。昼食にマクドナルドへ行こうと誘惑して、連れ出した。彼女はフライドポテトと、ハッピーセットの玩具が好物なのである。津田沼駅で一旦下車し、南口の「モリシア」の一階で昼食を取った。そして再び総武線各駅停車に乗り、西船橋東西線へ乗り換えた。車中、娘は転寝をした。目的地間際の浦安駅辺りで眠り始めたので焦ったが、幸いにして葛西駅に着くと一応は目覚めた。自力では歩かなくなったが。
 地下鉄博物館は閑散としていて、私の見込みは的中した。券売機で電車の切符を模した入場券を買い、自動改札を模した入り口に入場券を投入して館内へ踏み込んだ。さすが地下鉄博物館、入場券が交通系ICカードで買える。行く手に丸ノ内線と銀座線の古い車両(銀座線は復刻された車両が現役で走っている)が展示され、その偉容に娘は興味津々である。床に描かれた線路の絵も、子供には堪らなく唆られる要素らしく、パパも線路だけを踏んで歩けと強硬な態度で指示を飛ばしてくる。鉄道車両を運転するシミュレータもあり(小学生以上に限定された千代田線のシミュレータと、無制限の簡便なシミュレータの二種類があった)、娘は係員の無愛想な中年男性(高年男性かも知れない。鉄道会社の嘱託再雇用だろうか)の指示に従って無骨なレバーをがちゃがちゃと乱暴に動かした。係員がもう一回やるかと気を利かして尋ねてくれた。娘は首を横に振って「やらない」と意思表示して迅速に座席を下りた。係員は苦笑した。
 広々とした休憩室に自販機があったので、娘に紙パックの葡萄ジュースを買った。娘は量が多過ぎると言って残した。休憩室の壁面にはカプセルトイの販売機がずらりと並び、地下鉄博物館なので品揃えは総て鉄道関連の玩具である。娘が一個買ってくれと言い出し、本人に選ばせたら、一つ500円の高級品を指定してきた。出て来たのは、恐らくJR貨物の電気機関車で、電池が内蔵されているらしく、スイッチを入れると車輪が緩やかに回転して走り出す。プルバックの月並みな玩具とは階級が違う。流石500円の売値は伊達ではない。私の小銭入れは踏まれた紙風船のように一挙に痩せ細った。暫く、休憩室の大きなテーブルの上で繰り返し車両を走らせて遊んだ。四歳児には、実に丁度好い施設だ。以前、娘を千葉市青葉の森公園に程近い県立博物館に連れて行ったときは、喫茶スペースでオレンジジュースとコーヒーゼリーを振舞い、ミュージアムショップで蛍光塗料の「スパイペン」(透明なインクだが、附属のライトで照らすと文字が浮かび上がる仕掛け)も買ってやったのに、帰り掛けに今日は愉しかったかと尋ねたら、朗らかな表情で全然つまんなかったと吐き捨てられたので、今回は気に入ってもらえて恐悦至極である。
 地下鉄が主題なので、地下鉄のトンネルの工法に関する詳細な説明や模型がある。無論、娘はトンネルの掘削に何の関心もない。回転するシールドマシンのカッターヘッドの模型に多少ざわつくくらいのものである。トイレの出入口にセンサーがあり、往来すると踏切の警笛が鳴るように仕掛けてあった。娘は満面の笑みで往復した。
 一通り見終わったので、再び東西線に乗り込んだ。西船橋総武線に乗り換えたが、不図気が向いて更に船橋で京成に乗り換えた。生憎千葉・ちはら台方面への直通がなく、京成津田沼で再び乗り換えた。京成幕張駅の方が、JRよりも自宅に近いのである。幕張駅の改札を出るとき、私と娘の間隔が開いていた所為か、背後でピンポンと派手な音が鳴り、振り返ると閉ざされた改札に驚いて眼を丸くしている娘の表情が視界に飛び込んできた。駅員さんに頼んで改札のピラーのようなものを開けてもらって事無きを得た。家に帰ると妻は蒲団を敷いて昼寝というか夕寝に溺れていた。私の一挙両得の計画は見事に目的を達した訳である。