サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

苦しみのないところには、歓びもまた存在しない。

 人間の認識は「差異」というものの把握を前提に組み立てられている。「比較衡量」という言葉があるように、私たちは「差異」によって隔てられ、区分された対象を並べて比べてみることで、様々な観念の壮麗な伽藍を脳裡に建設する。換言すれば、私たちの有する認識と思惟の機能は、常に二元論的な比較の手続きに基づいている。

 「禍福は糾える縄の如し」という慣用句が示す通り、禍福は交互に入り組んだ状態で訪れるものであり、人生の総てを幸福と不幸の何れかで一面に埋め尽くすことは出来ない。それ以前に私たちは、幸福というものの価値を、不幸という経験との比較を通じて初めて明瞭に知覚する生き物である。これらの価値は相補的なものであり、銘々が独立した堅固な輪郭を備えている訳ではない。その意味でも「禍福は糾える縄の如し」なのだ。

 人間は贅沢な生き物であり、欲望には際限がない。一たび充足に達したとしても、その愉悦は束の間の夢幻であって、直ぐに新たな飢渇が迫り上がり、充足の魅惑的な幻影を粉微塵に吹き飛ばしてしまう。そして充足の永遠的な持続を希求し、喪失を危惧し、恋々たる執着を様々な対象に向かって抱懐し、濃縮させる。けれども、一切の瑕疵を免かれた完璧な幸福、完璧な愉楽そのものに、堪え難い飢渇を生み出す要因が含まれているのだとすれば、完璧な幸福とは永遠に不可能な夢のままに留まり続ける理念であるということになる。完璧な幸福の内側に潜在する「否認」が、既に与えられた潤沢な幸福を毀損するのならば、私たちは常に飢渇に苛まれ続けるしかない。

 完璧な幸福は退屈と倦怠を齎し、それは結果として完璧な幸福に対する破壊的な敵意を宿す。この不可解な自壊作用は、人間の精神が絶えず「比較衡量」の原則に従っていることの傍証ではなかろうか? 私たちは不幸の症候だけを選択的に抽出して除去することで、却って幸福な充足を排斥しているのである。その根底には「永遠」を希求する不可能な欲望の暴走が関与している。或る特定の状態が永遠に持続することを願う心情は、幸福が不幸との間に相補的な関係を有していることを看過している。不幸を知らない人間に、幸福というものの崇高な価値が理解出来る訳がないのだ。

 こうした消息は、あらゆる人間的な事例に共通して該当する。例えば自由は、不自由との相補的な関係性に基づいて、その実質的な真価を発揮するものである。抑圧や制約が存在するからこそ、自由の希求と獲得に重要な意義が生じるのであり、無際限に許された状態、つまり「放縦」の状態にあっては、自由であることは如何なる清新な輝きも有さない。少なくとも私たちの精神は、無際限な自由に容易く食傷して、却って不当な隷属の息苦しさに憧れるだろう。

 不自由な制約に苦しめられているとき、自由という理念は人間の眼に美しい光輝を帯びて映じる。けれども、実際に放埓な自由を授かってしまえば、光輝は忽ち色褪せ、砂を咬むように索漠とした自由の曠野で、人は途方に暮れるだろう。一方の極に偏することは常に、人間を堪え難い不満の渦中へ投げ入れる。私たちは単独で存在する絶対的で普遍的な価値の存在を信ずるべきではない。あらゆる価値の相補的な性質を理解し、極限への志向性が絶えざる反動と結び付いている現実に注目すべきである。

 欲望という器は、満たされるほどに、その容量を無限に増大させていく。換言すれば、欲望の充足とは常に一時的な現象であり、従って充足を累積することで完璧な充足に到達することが可能であると考えるのは根源的な謬見である。若しも私たちが絶えざる充足と精神の平安を望むのならば、欲望は決して充足されないという厳粛な真理に開眼する必要がある。そのとき、使い古された「少欲知足」という教訓が重要な意義を帯びて、私たちの眼前に顕現するだろう。これは「決して現状に満足しない」という近代的な欲望の経済学に対する叛逆の態度である。

 現状に満足することを拒絶し、絶えざる自己否定の精神を堅持することは、資本主義の世界においては、成長と発展の要諦として認められている。けれども、こうした進取的な精神は「成長」と引き換えに「成熟」の可能性を根本から毀損してしまう。「成長」とは絶えざる欲望の苛烈な命令に進んで従属することである。それを倫理的に断罪しようとは思わない。「成長」の効用を否定するのは、人類の進取的な側面が世界に齎してきた多様な功績の意味を不当に見縊ることに等しい。だが、死ぬまで欲望の奴隷として生き続けることが、如何なる合理性を持つのか、その点に就いて曖昧な判断を懐き続けるのは愚かしい。無論、過度に「少欲知足」の精神を堅持して、己の生きる世界を縮減するのも同様に愚かしい話である。重要なのは、不満足な状態そのものを愛することなのかも知れない。欲望は決して満たされないという理念を正しく理解するならば、貪婪な欲望と同じように「少欲知足」の精神も謬見の誹謗を免かれまい。充足から見捨てられること、絶えず飢渇に苦しみ続けること、これこそ人間の根源的な姿なのではないか?