サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「役割」に就いて

 人間は純粋に一人きりで生活を成り立たせていくことは出来ない。現代のように、あらゆる事柄が分業化されている世界では猶更、表面的には孤独な、自閉的で個人的な私生活が可能に見えても、実際には、高度な分業と他者との相互的な依存が、生活の前提に据えられている。分業が進めば、確かに私たちは固有の血縁や地縁に拘らず、色々なサービスを金で買うことが出来る。その意味では、私たちは厄介な関係の構築を金銭の力で省略し、自由と孤独を購うことが出来るという現代的な僥倖に恵まれている、稀有な存在だと言えるかも知れない。けれども、それは関係の在り方が変化したということであって、他者との社会的関係そのものの消滅を意味するものではない。血縁と地縁に基づいて織り成された濃密な共同体の原理は、都会的な匿名性の原理に蝕まれ、猛烈な速度で呑み込まれつつある。インターネットの発展も、そうした趨勢に拍車を掛ける要因の一つであろう。それは確かに重要で決定的な変貌には違いないけれども、それが孤独な個人の自立を齎したと判定するのは、適切な結論ではないと私は思う。

 関係性の構造が変化したとしても、人間が社会的な集団を形成しながら暮らす生物であるという根源的な条件は変わっていない。あらゆるものがパソコンやスマホの画面越しに手に入るという商業的なインフラストラクチャーが整備されているからと言って、その技術的な達成が人間の絶対的な自由と孤独を実現していると看做すことは出来ない。寧ろ人間同士の関係が余りに複雑化した所為で、可視化されなくなっていると看做す方が、妥当な解釈であろう。関係性が認識可能な範囲を超過して、不可視の暗闇へ紛れ込んでいる為に、私たちは孤独な自立が達成されているかのように誤解してしまう。無論、それは初歩的な幻想に過ぎない。

 換言すれば、私たちは自分の「役割」を把握し辛い社会に生きているということだろう。自給自足の生活を脱して、近代的な工業化と貨幣経済の浸透によって、巨大な分業の機構が発明されて以来、そうした「役割」の不透明化という事態はずっと継続しているが、通信技術の爆発的な発展は猶更、私たちの相互的な関係を錯雑した泥濘の奥底へ沈めている。こうした状況は、地縁と血縁に基づく共同体の堪え難い閉塞、門地や家柄に準ずるカースト的な制約に苦しむ人々にとっては福音であるが、如何なる福音にも必ず歓迎されない側面というものは附随している。身内と顔見知りだけで構成された世界に生きている限り、私たちは自分自身に課せられた役割とその由来を明瞭に看取することが出来る。それは殆ど自明の肉体的な役割として、私たちの意識の一隅に頑強に居座り続け、片時も醒めることのない強固な夢のように私たちの生活と行動を支配するだろう。そのとき、私たちは孤独の息苦しさよりも、濃密な関係性の息苦しさに重大な問題を見出して苦悶するに違いない。そして余りに明瞭で他律的な役割に囚われて生きることに、奴隷の絶望を覚えるかも知れない。

 こうした他律的な生き方への抵抗と、様々な技術的発展が組み合わさって、現代的な孤独の性質は形成された。私たちは可換的な役割の軽さに思い悩み、血縁の秩序の薄弱さに当惑し、容易く自分の生存の意義を見失ってしまう危険と隣接して暮らしている。それは選択の自由の漸進的な拡大という近代の果実であるが、誰もが選択の自由に肯定的な価値を認めている訳ではない。近代の自由主義は、個人の崇高な自立の実現を踏まえて設計された思想であり、それは万人に向かって開放されているが、必ずしも万人に適合した普遍的な思想であるとは言い難い側面を有している。自主独立を忌み嫌う人間にとっては、近代的な自由主義は、共同体の麗しい秩序を蹂躙する残虐なテロリズムに他ならない。自分自身の責任において、自分自身の意見を述べ、自分自身の行動を決定するという進取的な精神は、群棲する動物としての人間の本能的な部分に背反する性質を含んでいる。

 換言すれば、現代において古典的な共同体の論理は次々と崩壊の危機に瀕している。その最も具体的で象徴的な事例は「家族」という最小の社会的単位の機能的な不全であろう。未婚率と離婚率の増加、晩婚化、出生率の低下、これらの指標は悉く「家族」という古色蒼然たる共同体の論理が、具体的な現実との間に深刻な齟齬を来しつつあることの徴候である。私たちは自明の役割に従うことで「生の充実」を確保するという古典的な夢想に耽溺する為の条件を喪失する途上にある。「異性愛=家族=生殖」の三位一体の強力なイデオロギーは既に、その普遍性に関して明瞭に疑義を突き付けられている。私たちは最早「親」や「配偶者」といった役割の自明性さえも信じることの難しい、困難な境涯に立脚することを余儀無くされているのだ。役割の可換性の獲得は確かに、旧弊な共同体主義からの明朗な解放を意味している。けれども、その解放が別種の艱難を惹起することは避け難い。総てが自らの選択と決断の結果であると信ずることは、誰にとっても容易な道程ではないのである。