サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「出生」と社会的合意

 典拠が何だったか、具体的に思い出せないまま書くが、先日、2016年の日本における嬰児の出生数が遂に百万人を割り込んだという報道に接した。

 少子高齢化が、成熟した、古びた国家である日本の「宿命」だという論調は長い間、私たちの社会における共通の認識として、通奏低音の如く殷々と鳴り響き続けている。その背景には無論、様々な与件が関わっており、例えば若年層の経済的困窮が引鉄となって、未婚率の上昇と晩婚化の亢進、出生数の抑制といった現象が強化されつつあるという見解は、少しも目新しい推論ではなくなっていると言える。確かに金銭的な窮乏が、そして低所得の生活が将来的に改善される見込みが年々乏しくなり、裕福な栄達への希望が着実に痩せ衰えつつある時代の悲観的な風潮が、若年層の婚姻や育児に対する消極的な方針を強めていることは事実であろう。

 だが、経済的な理由だけで総てを説明しようとすることは、偏狭な見方であることに私たちはもっと留意せねばならない。多くの貧しい発展途上国では、日本とは比較にならないほど子沢山の世帯が多い。私の祖父母は、太平洋戦争を潜り抜けた世代であり、その生活水準は現代と比較して随分貧しかったであろうと思われるが、父方も母方もそれぞれ四人の子供を儲けている。貧しさだけを出生率の低下の理由として挙証するのは、経験的に考えて妥当な解釈ではないのである。

 個人主義の発達、ということが、現代社会の特質の一つとして取り上げられ、大仰に語られている場面に遭遇することは珍しくない。実際、この国における近代化の過程は、地縁と血縁の弱体化という現象を限界まで推し進めてきた。それでも未だアメリカのような極端な水準には達していないかも知れないが、日本の地縁と血縁に呪縛された共同体の歴史的地層は、先住民の虐殺を通じて獲得された広大な新天地への入植という形で始まり、独立宣言の採択から未だ240年ほどしか経っていない合衆国よりも遙かに古く根深い。個人主義の発達を妨げる古びた因習の拘束力が極めて濃密であることを、私たち日本人は考慮に入れるべきであろう。

 個人主義の発達、そして社会そのものの成熟が、近代化の齎した豊饒な果実であることは疑いを容れない。私たちは互いの存在を厳格な規範によって拘束し、監視し続けなくとも、平穏な生活を営めるほどの物質的な幸福を、歴史的な努力の積み重ねの末に手に入れることが出来た。物質が行き渡れば、それを力を合わせて守ったり、或いは限られた面子で分け合ったりすることの必然性が失われていく。言い換えれば、物質的な豊かさが社会全体に浸透することに比例して、共同体に帰属することの重要性や必然性は薄らいでいくのである。それが個人主義的な考え方の発達を促し、私たちの考え方、或いは思想信条のスケールを縮減する結果を齎す。

 共同体に対する強固な帰属は、その歴史的な伝統性に対する敬意や理解を育むが、共同体への忠誠が軟化していくと、必然的に伝統への理解は弱まる。つまり、共同体の存続という問題に対する関心が衰微することになる。それが即物的な次元においては「繁殖」に対する関心や欲望の弱体化を招くのは、当然の帰結である。

 私たちは所帯を構えることや子供を産んで養育することに関して、選択の自由を認められつつある。無論、大勢の多様な人間で構成された巨大な社会の変容は、一朝一夕に完成するものではないし、一旦、躰に根付いた価値観の変更には厖大な時間と労力が欠かせない。だから、今でも「家族」という社会的な単位の重要性は、完全には死滅していないし、寧ろ過剰に亢進した個人主義的な傾向に対する反動のように、共同体への帰属を美化する考え方は局地的に強まっているとさえ言える。それは社会全体が高度経済成長やバブルの時代の楽天的な「成長至上主義」から、異なるフェーズへ移行しつつあることの証左である。日本社会は今後、飛躍的な発展を遂げることはなく、静謐な成熟の段階に進んでいくという観測が、この国では最早、支配的な言説の地位を占めつつあるのだ。

 言い換えれば、私たちは再び「貧しさ」の中へ回帰しようとしているのだ。無論、それは戦後直ぐの焼け野原の中で人々が歯を食い縛って分かち合っていた「貧しさ」とは比較にならないほど豊饒な「貧しさ」である。だが、重要なことは、現状の豊かさが今後も永久に右肩上がりの成長を続けることは困難であるだろうというペシミスティックな考え方が、社会的な合意として承認されるかどうか、という点に存する。人は直ぐに与えられたものの価値に倦怠を感じてしまう生き物であるから、既に手に入れてしまった富の総量がこれ以上増えないだろうという観測は、直ちに「貧しさ」として感受されてしまうのである。

 言い換えれば、私たちの国においても、ドナルド・トランプの君臨する合衆国同様に思想と社会的境遇の「分断」は拡大しつつあるということだろう。「家族」という古き良き価値観を重んじて育児に異様な熱意を示す人々が存在する一方で、婚姻や出産という社会的な価値に関心を示さない人々も増加の一途を辿っている。これは極めて困難な問題であり、共同体への帰属と「繁殖=存続」への欲望が同期している以上、私たちは出生率の向上という問題意識そのものの根本的な妥当性に関して、先ず旺盛な議論を展開しなければならないのだ。だが、私たちはどのように問うべきなのだろうか? 何れこの国が滅びても構わないと考えるならば、「繁殖=存続」の原理と手を切ることは少しも咎められるべき判断ではない。しかし、この国が滅びても構わないのか、という恫喝に、既に共同体への忠誠心を失った個人主義者が容易く屈従するとは考え難い。