サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

人工知能は、書くことの秘儀を駆逐してしまうのか?

 文章作成を主務とした人工知能(AI)が実用化され、色々な方面で活躍しているという。その記事作成能力は恐るべきもので、既定のテンプレートに厖大な情報を紐づけることで、客観的な事実を伝達する為の文章を瞬く間に書き上げてしまうらしい。文法的に精確で、事実を精確に、系統的に伝える洗練された文章を、人間が決して追随することの出来ない驚異的な速度で、AIが次々に作り出してしまうという近未来の空想が、いよいよ血肉を伴った現実として具体化されつつあるのだ。

 AIの実用化によって、数多くの職業が近い将来には消滅してしまうだろう、というSF的な発想は今日、少しも荒唐無稽の妄想の類ではなくなっている。自動車の自動運転技術が完成すれば、遅かれ早かれ、この世界から夥しい数のドライバーが退場することになるのは自明の理である。そして、その影響は、文章を書くことを生業とする人々の世界にも波及しているという訳だ。これから、本当の意味で創造的な仕事だけが人類の掌中に残され、それ以外の単なる「作業」は悉く剥奪されていくだろう。そうした近未来の青写真を、荒廃したディストピアのように物語って悲観したり呪詛したりするのは、真っ当な人間にとっては賢明な態度ではない。尤も「創造的な仕事とは何か」という設問に正しい答えを与えるのは容易なことではないから、悲観的な人々を新しい希望の世界へ導いていくのは骨の折れる作業となるに違いない。

 AIは、定められた手順を恐るべき「速度」と「精確性」を維持したまま、無際限に踏襲していくという性質の業務に関して、人間が幾ら束になっても敵わないほどの驚嘆すべき有能さを示す。それはAIに限らず、広義のコンピュータそのものが、その生誕の瞬間からずっと保有し続けてきた「才能」の本質であろう。定められた手順を正しく素早く実行する、という仕事に向いているのが、人間とAIの何れであるか、この期に及んで見苦しい議論を戦わせたところで無益であるのは分かり切った話だ。これから私たちの社会は新しい次元に移行し、いよいよ近代的な価値観の制度疲労は臨界点に達するであろう。古き良きラッダイトの猿真似を試みるのは、醜怪な犬死の原因にしかならない。

 今後、既定のマニュアルの遵守にばかり血道を上げる人々は、職場から放逐されることになるだろう。言い換えれば、誰かの指示に依存して、決まり切った単純作業に従事することしか出来ない人々は、AIの実用化の残酷な衝撃を正面から浴びて斃れることになるだろう。だが、それは本当に不幸で悲観的な天気図であると言えるだろうか? 重要なのは、「正しさ」というものの価値が一挙に下落するであろうという見通しである。文法的に正しい文章を書く能力、誤字脱字を見逃さない能力、つまり「予め定められたルールの遵守と適用」ばかりに特化して磨き抜かれた能力は、株価の大暴落に苦しむことになるのだ。尤も、そうした事態は遙か昔から受け継がれてきた人間社会の「真理」の拡大された形態に過ぎないという見方も充分に成立する。古今東西を問わず、人間の社会は「新しいものを生み出すこと」で進歩してきた。その為に私たちは「考える葦」として生きてきたのだ。どういうことか?

 これからの時代、つまりAIの実用化が充分に推進された時代においては、人間に残された職業的な価値は「考えること」に集約される筈である。行動すること、そして計算したり分析したりすることは、総てコンピュータの爆発的な能力に委任され、私たち人間は、彼らとの間に共存共栄の為の協定を締結することになる。つまり「棲み分け」が物事の鍵を握るようになる。もっと言えば、私たちは常に「何故、それをやるのか」という根源的な定義の追究を、あらゆる職業の現場において携えながら生きることになるのだ。例えば、物流業界の現場の人々は、その過半がAIに仕事を奪われるだろう。少なくとも、物流の仕事を単なる「荷物の運送と揚げ降ろし」だと解釈して疑わないような人々の手許には、AIとの競争力は残らないに違いない。物流の使命が「物を運ぶこと」に尽きるのであれば、AIの方が遙かに適役であることは火を見るより明らかである。私の所属する小売の世界でも、商品の包装や会計の計算などは明らかに人間よりもAIの方が得意である筈で、そうした単純な作業を「小売の使命」だと誤解している人々は、AIに雇用を奪われても文句は言えないのである。単に顧客の注文を受け、必要な売買の手続きを踏むだけならば、人間を雇う必要はない。つまり、AIの発達と実用化は「人間がやるべきこと」を専一に洗い出し、浮き彫りにする為の重要な指標として機能することになるのだ。

 答えの出ている仕事に取り組むのは、AIだけで充分である。彼らは労働基準法の適用を受けないし、年中無休で働かせても差し支えなく、その存在に敬意を払う必要もない。効率を考えるならば、AIでも成し遂げられる業務にわざわざ人間を割り当てるのはナンセンスな判断である。それは「創造的な仕事」であると一般的に盲信されている文筆業の世界においても充分に当て嵌まる真理であるだろう。単にデータを纏めたり、関連付けたりするだけの文章、或いは諸々の情報を予め定められたテンプレートという鋳型に流し込んだだけの文章、それらは人間が書くよりもAIが書いた方が手っ取り早く、精確である。言い換えれば、単なる「情報」に過ぎない文章ならば、人間の手を経由する必要性は皆無であるということだ。

 そうやって段階的な腑分けを経由するうちに、私たち人間に固有の「価値」というものが少しずつ露わになっていく。人間にしか書けない文章、それは客観的な文章や、中立的な文章ではない。自分の立場を明示せず、自分の主体性を注ぎ込むこともなく綴られた「美しい文章」などに、未来の社会は断じて価値を認めようとはしないだろう。

 だが、それは来るべき人工知能社会だけの特質という訳ではない。厳密には、今まで明るみに出なかった真実、多くの余計な障壁に阻まれて、見極めることが困難であった真実が、AIの発達という社会史的な条件を触媒として鮮明に結像するというだけの話ではないだろうか。今も昔も、単なる中立的で客観的な文章に、人間の魂が震撼させられたことは一度もなかったのではないか。精確な情報が要請される場面は無論、社会の到る所に日々出現している。しかし、そうした情報の価値は今後、AIによって管理されることになり、私たち人間は無味乾燥な「正しさ」の監獄から釈放されることになるのだ。

 私が私であることの意味、それを問い詰めない限り、これからの新しい時代の「雇用」を人間が保ち続けることは不可能である。書くことの秘儀など、さっさと駆逐されてしまうがいい。そうやって夾雑物を軒並み取り除いた後に残る一粒の砂金の「価値」を、私たちは真剣に見定めるべきだし、寧ろそれだけを相手取って生涯を卒えるべきである。こうした考え方は極論のように響くかも知れないが、燐寸しか使えない時代に燐寸を使うことの意味と、ライターが存在する世界で敢えて燐寸を用いることの意味との間には、千里の径庭が横たわっている。燐寸が滅び去ることの必然性を、懐古趣味だけで覆すことは不可能であるし、そもそも不健全で因習的な発想なのである。