サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

三十二歳の男

 結局、自分という生き物の組成を理解する為に、私は色々な事柄へ関心を寄せて、彼是と益体のない思索に耽っているのだろう。他人を理解することは、自分を理解することよりも時に容易く感じられる。それは私が、他人の外在的な事実だけを捉えて考察を加える為に、欺かれる部分が少ない為ではないかと思う。人間が最も見破り難いのは恐らく、他人の吐く嘘ではなくて、自分自身に対する欺瞞である。正当化や美化、或いは不都合な暗部の黙殺、それらの内的な欺瞞を自力で打破することは非常に困難である。

 客観的に事態の全体を眺められる立場にあるとき、対象の本質を読み解くことは寧ろ容易い。けれども、自分の行動や生活や思想を俯瞰して、その全体的な構造を滑らかに展望することは難しい。だから、私たちは自分の正体を容易く見失ってしまう。自分が何を信じ、何を欲しているのか、その矛盾した構造に気付くことさえ難しい。だが、世の中に蔓延する問題の過半は、自分で自分の本質を捉え損ねていることに起因するのではないだろうか? 自分の本当の欲望を知らず、本当の感情を無意識に偽り、結果として不毛な行為の連鎖に陥落していく。迷妄は深まり、真実は無際限に遠ざかり、不本意な行動を本質的な欲望と取り違える。この下らない混乱と謬見の深みで悶えているのが、多くの人間の逃れ難い性ではないだろうか。

 自分自身に就いて知ること、学ぶこと、その為にも他人と世界に就いて学ぶこと、それが生きることの叡智の根本に据えられなければならない。世界と、その世界に属する存在としての自分に関する理解を深める作業を省いてはならない。世界を理解しようとする欲望、或いは志向性は、人間的なものの基礎的な領域の中枢を占めている。自分自身の存在も含めた世界に対する関心を喪失したとき、人間の精神は虚無の奈落へ転がり落ちるだろう。如何なる意欲も熱情も死に絶え、世界は灰白色に染まり、生きることの理由と価値は見失われるだろう。

 自分が本当は何を望んでいるのか、その欲望に充足が与えられる見込みはあるのか、そういった抽象的で観念的な問題に、時々脳裡を抑えつけられることがある。そんなことを考えても無意味だという気分にもなる。何が本当で、何が嘘なのか、そういう問題の設定の仕方が既に一つの根本的な欺瞞の上に成り立っているような予感もする。結局、本当の自分などという便利な観念は何処にも存在しないのではないか。そういう若々しい夢想を諦めてしまうべき刻限に、実は既に到達しているのではないか。私はもう若くないのだろうか。三十二歳で、妻子を持って、十年以上続けてきた仕事があって、終の栖に定めた持ち家のローンを少しずつ返済して、それは若さの喪失だろうか?

 考えてみれば、つまり昔日を振り返ってみれば、私は何も持たない少年であった。学歴も特技も何もない、世間知らずの生意気で陰気な、そして何処か狷介な少年の端くれとして、訳も分からず社会へ飛び出した。それから十数年の歳月が過ぎたことが何だか信じられない。あの頃とは、何もかもが変わってしまった。二十歳の私は、何も持っていない自分の現実に始終苛立っていた。何かをしなければならないという焦躁と、何をすればいいのか分からない不安と、何も手に入らないのではないかという絶望が、渾然と混ざり合って私の精神を浸していた。大学を辞めて、子持ちの女性と勢いで結婚したとき、何れ子供が出来ると分かっていながら避妊もせずにセックスばかりしていたとき、私は閉塞的な日常を打破する為に、過激な手段を自ら選択したのではないかと思われる。時々、私は平坦な日常を粉々に破壊したくなる衝動に駆られることがある。そんな衝動は、妻子と部下を持つ三十二歳の男には相応しくない。犠牲者のことを何も考慮しない訳にはいかない。世間体という言葉は今も嫌いだが、それでも周囲との関係を蔑ろにするには、随分、手垢のような常識に塗れてしまっている。

 三島由紀夫の小説を読みながら、少なくとも二十歳の頃の私は、金閣寺を焼き払った僧侶のように、何らかの危険な博打に手を染めていたのだと考える。退屈な日常、未来永劫、この世界に響き続ける退屈な旋律に心底うんざりしながら、私はきっと自分の「人生」が明確な出発の号砲を告げないことに苛立っていたのだ。しかし、色々な因果に搦め捕られて、私は知らぬ間に人生の方へ滑り出していた。幸福も不幸も織り交ぜて、子供の頃に想い描いた未来とは少しも重なり合わない現実の怒涛に、私は何時しか呑み込まれていた。そうやって息継ぎを繰り返しながら、私は時に難破の危殆に瀕し、辛うじて酸素を頬張って、脆弱な命を繋いできた。これから、私はどんな世界へ向かって泳いでいくのだろうか? 別段、虚無的な心情に支配されている訳ではない。未来に絶望している訳でもない。ただ、不可思議な心境に立っているだけだ。未来は常に不確定なものである。不確定な未来に、人は不安を覚える。だが、時に人は、確定的な未来に対しても、奇妙な不安を覚えるものなのだ。