サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(幸福・未来と現在・自律)

*「幸福」というものには誰しも漠然たる憧れを懐き、少なくとも不幸のどん底を這い回るよりは幸福で安楽な生活を送りたいと通俗的な願いを懐くのは庶民の慣習である。無論、私だって好んで不幸な、悲惨な境涯へ自ら歩みを進めたいとは思わないし、苛酷な修羅場を態々愛して執着しようとは考えていない。だが、何でもかんでも「将来の幸福」という至極漠然たる理念の下に統御して、ストイックな自己規制を何重にも自らに覆い被せて、まるで「審判の日」を待ち設けるかのように只管、過去も現在も総て未来の糧だと思い込んで犠牲に供するのは、偏頗な振舞いではないかと思う。未来を信じ、希望を信じることは確かに、人間的な倫理に適っている。だが、未来の幸福を只管に祈願するという保守的な発想、つまり常に老後の人生設計ばかりを気に病んで、まるで安穏な老後を迎える為に今を生きているかのような、保険屋的発想は、人間的な倫理に適うとも思えない。一体誰が、老人になる為に生を享けたのか? 私たちの幸福は総て、私たちの人生の意義は総て、晩節の社会的査定に懸かっていると言うのだろうか? そんな筈はない。幼くして死んだ生命にも、生命に固有の価値が備わっている。十年しか生きられなかったからと言って、生まれた甲斐がないなどと看做すことは出来ない。人生の価値は、その年月の長短によって定まるものではない。そんな保険屋的な算数では、人生の価値を推し量ることは不可能である。

 長生きすれば幸福だ、という観念は、それだけ多くの経験を為し得るからという積極的な理由に基づくものであれば結構だが、特に明確な理由や志向性もないのに、徒に長寿を祈願するのは馬鹿げているし、本末転倒である。物事には適切な時間的枠組みというものが備わっており、何でも永保ちすれば尊いという訳ではない。何年生きれば幸せで、何歳で他界したら不幸だとか、そういう単純な算法が通用する筈もないことは誰でも弁えている筈なのに、私たちは無闇に長生きすることを欲して、各種の健康法に莫大な時間と財産を投入したりするのである。

 人は尤もらしい口調で、未来を見据えて生きろと言う。十年先、二十年先、五十年先を見据えて、今を律するべきだと真顔で諭す。だが、人間に見通せる未来図など高が知れているし、そもそも生きることの醍醐味は未来の不透明さの中にある。一寸先は闇だという俚諺が教える通り、私たちは明日にも街角で車に撥ねられて死んでいるかも知れない身である。儚い現世の泡沫である。別に未来を信じ、未来に憧れることを腐すのではない。未来という理念に甘えることを私は危惧しているのだ。刹那的なエピキュリアンであれと、無節操に自他へ説いて回りたいのではない。刹那的な享楽のことしか考えられない愚昧な人間は、単に退屈である。何の魅力もない。同様に、未来の安寧だけを願って眼前の現実を軽んじる保守的な人間も退屈であり、その考え方は無味乾燥である。未来の安寧を何よりも優先する人間の心理には、未来は確実に存在するという盲目的な信憑が含まれている。だが、未来は何時途絶えるか知れたものではなく、今夜眠って、明日の朝、確実に目覚めるという保証は何処にも存在しないのである。

*一体、大多数の人間が懸命になって希求する「幸福」とは何なのか? その正体は、煎じ詰めれば「欲望の死滅」ということではないだろうか。少欲知足、つまり多くを望まず、慎ましい生活の中に埋没することが、幸福への最も効率的な捷径であることは、様々な経験的事実が力強く立証している。欲望は飽くことを知らず、満たされれば満たされるほどに餓える。その絶えざる物足りなさが人間を次なる衝動へ導き、駆り立てる訳だが、欲望は原則として満たされたり満たされなかったりするものであるから、欲望に基づいて生きる限り、人間は必ず何らかの不満足を抱え込まずにはいられず、そこから諸々の苦しみの種が生ずる訳である。だから、幸福を本当に望むのであれば、種々の欲望をさっさと去勢してしまうのが望ましく、その為には己の心の耳を塞ぐのが合理的である。魂に麻酔を打ってしまえば、多くを望まずに、押し寄せる現実を追認するだけで済む。それが幸福の本質であるならば、それは万人が等しく希求し、恋焦がれるべきものであろうか? そこには先ず「挑戦」とか「勇気」とか「決意」といった理念が欠落している。幸福を得る為には、挑戦も勇気も決意も含めて、あらゆる種類の闘争的な理念が不要になる。幸福とは、眼前の現実をそのまま肯定して、何の不満も懐かないという精神的な倹約の果実である。幸福にとって、欲望と享楽は宿命的な怨敵だ。忌まわしい障害物だ。もっと言えば、幸福とは自閉的な境涯である。極端に言えば、幸福は他者という野蛮な異物を必要としない。他人との交わりは、現実の端的な肯定を許さず、気儘な自足を乱暴に踏み躙るだろう。隠遁と幸福の間には密接な関係がある。だから、幸福を求めることには、倫理的な問題が介入しない。幸福は個人の心理的な問題であって、外在的な要件とは無関係に生起する不安定な精神的現象に過ぎないのである。

*「幸福」は他者によって傷つけられないことであり、他者によって踏み躙られないことである。だが、生きることの目的が、他者によって毀損されないことであると言い切ってしまえば、他者との関わりは不要な障碍以上の意味を持たなくなり、生きることは常に保身の欲望と不可分の状態へ陥る。生きることの目的が「保身」でしかないのならば、どんなに道徳的に振舞ってみせたところで、その退屈なエゴイズムは消え去ることがない。愛情は、相手の幸福を願うことであると、人は気安く言う。しかし厳密に考えれば、真の愛情は相手の幸福のみならず、相手の不幸さえも認めることでなければならない。相手の幸福を願うのが愛情だという言い方には、傲慢な支配性が混入している。人間は幸福にも不幸にもなる権利を持っており、臆病な保身を自ら蹴倒す資格も有しているのだ。欲望に駆り立てられる自由も持っているのだ。自らの愛情で他人を幸福に出来るという考え方は不健全であり、端的に言って驕慢である。禍福は自らの心が決めるのであり、余人に容喙される筋合いはない。私たちはただ、愛する人を見守ることしか出来ない。向こうが困窮したときには手を貸して慰めてやることも必要だろう。だが、それは相手を自分の力で幸福にするという思い上がりとは無関係なものであるべきだ。ただ見守ることだけが、愛情の誠実な証左である。愛することは何時でも、ただ黙って見凝め合うことに似ている。