サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

バートランド・ラッセル「幸福論」に関する覚書 3

 バートランド・ラッセルの『幸福論』(岩波文庫)を読了した。

 非常に多岐に亘って「禍福」の原理を、具体的な実例と明快な考察と共に究明しているラッセルの「幸福論」の内容を、軽率で杜撰な要約に還元するのは適切でも生産的でもない態度である。けれども、枝葉末節に拘泥して肝腎の根幹を捉え損ねるのは愚かしい振舞いだ。原理は、無数の夥しい論理的悪戦苦闘の死屍累々たる曠野の上に築かれるが、総ての死屍の片鱗を残らず身に纏っている必要はない。麦が複雑な工程を経て透明で純粋な蒸留酒に作り変えられるように、理性と思索は、猥雑な現象の豊饒な姿から、一握の透明な真実、綿密に不純物を除去された簡明で堅固な真実を析出することを己の本務に定めている。従って適切な要約を試みることは、理性的な思索にとっては不可避の壮図である。

 世界には、いろんな時代に、いろんな孤独な哲学者がいた。あるものは非常に高潔であり、あるものはそれほどでもなかった。ストア学派の哲学者と初期キリスト教徒は、人間は自らの意志のみで――少なくとも人間の援助なしに――人間生活に可能な最高の善を実現することができる、と信じていた。また、権力こそが人生の目的であるとみなす人たちもいれば、さらに、単に個人的な快楽を求めるものもいた。こうした哲学は、次のような意味でおしなべて孤独な哲学である。すなわち、善というものは、大小の人間社会の中で実現されるだけではなくて、一人ひとりの人間の中でも実現されうるものだと考えられている、ということだ。(『ラッセル幸福論』岩波文庫 P42-P43)

 ラッセルはストア学派の思想に就いて聊か批判的な含意を以て言及しているが、彼の披瀝する見解が、例えば『生の短さについて』(岩波文庫)に収められたセネカの思想と比較して、大幅に異質であると考えるのは必ずしも妥当な判断ではない。欲望に衝き動かされ、過剰な享楽に溺れる人間の「逃避」を、人間の「不幸」の重要な培地として捉える発想は、寧ろ両者に通底する特徴であると言えるのではないだろうか。

 セネカラッセルも、過剰な蕩尽とも称すべき没我的な享楽に溺れることの本質的な不幸を戒め、静謐な愉悦に満たされた幸福の境涯を目指すことを勧めている。欲望の充足を直ちに幸福の完成へ接続することの困難に就いて、彼らは豊富な実例を挙げて綿々と縷説している。ラッセルは欲望の充足を否定せず、中庸の美徳を重視した。彼が中庸という観念の重要性を説いた背景には、欲望の本質的な無限性に対する警戒心が介在していると考えられる。適切に制御された欲望は、人間の平穏な精神の堅持を妨害するものではない。セネカも、決して欲望の全面的な根絶を倫理的な規矩として称揚している訳ではない。彼は欲望の完全なる扼殺が不可能であることを明瞭に弁えている。

 さらに、さまざまな欲望には、遠くのものではなく身近にあるものを求めさせ、捌け口を与えてやるようにしなければならない。われわれの欲望は完全に閉じ込められることには耐えられないからである。実現不可能なもの、実現可能であっても困難なものは断念し、身近にあり、われわれの期待に望みをもたせてくれるものを追い求めるようにしよう。(『生の短さについて』岩波文庫 P104)

 享楽的なエピクロス派と禁欲的なストア派という粗雑で不正確な便宜的区分には何の意義も備わっていないと言うべきである。セネカが懸念したのは欲望の無限性に支配されて「静謐」の美徳を失うことであり、少なくとも「静謐」の美徳を攪乱されない限りにおいては、彼もまた欲望の充足が必要な過程であることを認めている。ストア派に比べれば遥かに欲望の肯定に関して柔軟で進取的な考えを持っているラッセルも、欲望の無限性、或いは病的な渇望に就いては明確に批判的な裁定を下している。

 不幸の心理的な原因は、明らかに、多種多様である。しかし、どの場合にも、ある共通点がある。不幸な人間の見本とも言うべき人は、幼いときにある正常な満足を奪われたため、この一種類の満足を何よりも大事に思うようになり、ために、自分の人生に一方的な方向を与え、それとともに、その目的にかかわる諸活動ではなく、その達成のみをまったく不当に強調するようになった人である。しかし、現在では、事態はもっと悪化していて、それがごく普通になっている。人は、完全に意欲をくじかれたと感じるあまり、いっさいの満足を求めようとしないで、気晴らしと忘却のみを求めることがある。それから、彼は、「快楽」に血道をあげるようになる。言い換えれば、活動的に生きることをやめることで、生活をなんとか耐えられるものにしようとするわけだ。(『ラッセル幸福論』岩波文庫 P22-P23)

 無限に亢進する欲望、充足されるほどに一層劇しい飢渇に囚われてしまう麻薬的な欲望、それは当人の本来的な欲望の不能性を隠匿し、閑却する為に出現する贋物の欲望である。本来的な欲望を抑圧して、それによって生じる不満を解消する為に、贋物の欲望を満たすことで、いわば代理的な充足を図ろうとする心理的機制、これが「不幸」の最も重大な元凶なのである。だが、こうした代理的な欲望の充足は、本来的な欲望の充足には帰結しないので、不満の抜本的な解消を齎すには至らない。従って、代理的な欲望の充足による効果は常に一時的な「忘却」に留まり、それが失効する度に再び不満が現われ、欲望は無限の反復的要求として我々の精神を呪縛することとなる。

 代理的な欲望の本義は「忘却を得ること」であり、それは一般的には「陶酔を欲すること」と同義である。種々の放縦な享楽は正に、こうした「陶酔」への絶えざる憧憬と執着なのである。そして「陶酔」の本義とは現実に関する精確な理解を破壊することであり、もっと通俗的な表現を用いるならば「現実逃避」である。代理的な欲望、贋物の欲望の特徴は、それが没我的な陶酔を志向している点に存しており、堪え難い現実の齎す不満を癒やす為に、明晰な理解を麻痺させ、知性の働きを鈍磨させることを最終的な目標に定めている。

 こうした代理的欲望の特徴は、本来的な欲望の挫折から生じる。本来的な欲望は常に現実の精確な理解と共にあり、仮に欲望が挫折した場合であっても、我々が勇気と忍耐を以て現実からの遁走を拒むならば、つまり苛烈な現実を直視する勇気と理性を堅持するならば、贋物の欲望が繁茂する危険は生じない。

 あらゆる不幸は、現実を直視せず、恣意的な幻想に逃げ込むことで培養される。現実の客体的な構造が我々の欲望を阻害することは日常的に起こり得る。セネカラッセルが欲望の充足を無際限に追求することを戒めたのは、不可能な欲望に固執することで、徐々に現実を直視する勇気と忍耐を失い、幻想の世界へ逃げ込んで贋物の欲望に耽溺するようになることを「不幸」の淵源と看做した為ではないだろうか。不可能な欲望に執着することは、それ自体が既に「現実の直視」を欠いた振舞いである。言い換えれば、不可能な欲望への過剰な執着は、それ自体が既に「贋物の欲望」の発露に他ならないのである。現実の忘却、明晰な理解の抛棄、見当識の消滅を伴う強烈な快楽、即ち「陶酔」への欲望は総て、人間の本来的な欲望からの乖離に基づいている。極限まで高められた「陶酔」への欲望は最終的に「涅槃」を希求するだろう。言うまでもなく「死」は最も強烈で根本的な「陶酔」の形態であるからだ。

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)